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西田優大という男——「おでんくん」が日本バスケの主軸になるまで

2026年03月11日 · 読了 11分
西田優大という男——「おでんくん」が日本バスケの主軸になるまで

はじめに:徳島の端っこから、沖縄の代表戦まで

徳島県海部郡海陽町。四国の南端に位置する、人口1万人に満たない小さな町です。

そこで育った少年が今、日本代表のシューティングガードとして、アジア地区予選の舞台に立っています。2026年3月1日、沖縄サントリーアリーナ。西田優大、26歳。愛称は「おでんくん」。左手から放たれる3ポイントシュートは、今や日本代表に欠かせない武器のひとつです。

ただ、彼のキャリアを追いかけると、「順調なエリート街道」という言葉だけでは片付けられない部分が見えてきます。代表落選の悔しさ、高校での連続早期敗退、大学でのケガとコロナ禍——それでも積み上げ続けたものが、今の西田優大を作っています。最初から丁寧に辿ってみましょう。


第一章:海陽町のバスケ一家に生まれた少年

西田優大は1999年3月13日、徳島県海部郡海陽町に生まれました。

父・聡英氏は地元の社会人リーグ「海部パイレーツ」に所属するバスケットボールプレーヤー。子どものころから父の試合についていき、チームの人たちとボールで遊んでもらっていたといいます。自宅にはバスケットゴールが設置されていました。

「気づけばバスケをしていたという感じです」

本人がそう語るほど、バスケットボールは生活の一部として存在していました。小学3年生で地元のミニバスチームに入り、本格的なキャリアがスタートします。

この家庭環境は優大ひとりにとどまりません。三兄弟すべてが同じ道を歩んでいます。次男・公陽もシーホース三河でプロ選手として活躍し、三男・陽成も滋賀レイクスと複数年プロ契約を結んでいます(大濠高校・東海大学と兄と同じルートを歩んだ)。徳島の小さな町から、プロバスケ選手を3人輩出したバスケ一家です。


第二章:海陽中学——無名でも「全国レベル」と認められた

地元・海陽町立海陽中学校に進学した西田は、中学1年生のころから試合に出場。ただ、チームとして全国中学校大会(全中)に出場することはありませんでした。

しかし、個人としての才能は全国から見えていました。

中学2年時にはU-15日本代表合宿、3年時にはU-16日本代表合宿に参加。チームとしての全国大会とは縁がなかった「地方の選手」が、年代別の日本代表に呼ばれたのです。

この選出が、次の大きな決断を後押しします。「強豪で自分を試したい」——西田は徳島を出て、福岡の名門校への進学を決めます。


第三章:大濠の1年生が、全国決勝で3ポイントを沈めた

福岡大学附属大濠高校は、プロバスケットボール選手を多数輩出する高校バスケ界の強豪です。西田が進学したころ、一学年上には牧隼利(現・琉球ゴールデンキングス)、中村太地(現・シーホース三河)、増田啓介(現・川崎ブレイブサンダース)がいました。

地元を離れ、そのレベルの集団に飛び込む。簡単なことではありませんでした。西田は当時をこう振り返っています。

「高校から親元を離れて福岡で生活することになり、孤独になることもありました。一人だけで頑張れるものでもないし、練習についていけなくなった時期もありました」

それでも、二人部屋の寮で共に過ごした仲間と励まし合いながら乗り越えていきます。

そして1年生の冬——転機が訪れます。

同年のインターハイではベンチ入りすらできなかった西田でしたが、ウィンターカップでは途中出場のチャンスを掴みます。決勝の相手は、八村塁を擁する明成(現・仙台大明成)。東京体育館の大舞台で、第2クォーターに西田は逆転の3ポイントシュートを沈めます。さらにリードを拡大する活躍を見せ、チームは一時リードを奪いました。

最終的には逆転されて69-71で敗れ、準優勝。でも西田にとって、この試合の意味は特別でした。

「これまでやってきたことが間違いではなかった」

1年生が全国決勝の舞台で物おじせず自分の力を出し切れた。その確信が、その後の西田の土台になります。

同年、大濠はインターハイで優勝も達成。西田は1年時から全国のトップを経験した選手になりました。

しかし2年時、3年時はウィンターカップで2年連続2回戦敗退、インターハイも振るわない結果に。チームを勝たせることができなかった悔しさは本人の言葉でも滲みます。3年時にはU-18アジア選手権に日本代表として出場し、チームは準優勝。しかし全国高校大会での「有終の美」は飾れませんでした。

この悔しさが、今でも彼の原動力のひとつになっています。


第四章:東海大学——「ディフェンスが嫌いだった」男が変わった場所

高校卒業後、西田は東海大学を選びます。理由はシンプルです。

「中学時代の恩師が陸川章監督の大ファンだった。大学で活躍することが恩返しにもなると思い、東海大を選びました」

東海大学は「ディフェンスを重視したチーム」として知られていました。そして、高校まで「ディフェンスが大嫌い」だった西田にとって、その環境は最初から厳しいものでした。

「高校時代は正直、ディフェンスが大嫌いでした。でも東海大学はディフェンスを大切にするチーム。嫌でもやらなければならない状況で、やっていくうちにどんどん『ディフェンスって楽しい』と思うようになりました」

陸川監督が言い続けた言葉があります。「“心の山”と”技術の山”を登りなさい。その先に”チャンピオンの山”が見えてくる」——西田の大学4年間は、まさにこの言葉通りの時間でした。

1年時にはインカレ前に腰を痛め、3年春には右足を捻挫。ケガに悩まされながら、さらに2020年以降は新型コロナウイルスの影響で満足に試合や練習ができない期間も続きました。

それでも積み上げた数字は本物でした。インカレは2年時(2018年)と4年時(2020年)に優勝、どちらも優秀選手賞を受賞。「プロセスを大事にした4年間」という本人の言葉が象徴するように、壁を乗り越えるたびに強くなっていきました。

3年次の2019年12月、名古屋ダイヤモンドドルフィンズと特別指定選手契約を締結し、プロの舞台を初体験。12月28日のSR渋谷戦で18分出場し13得点を記録するなど、大学生ながら存在感を示しました。


第五章:プロデビューと、最優秀新人賞

4年次の2020年12月、大学卒業を前に新潟アルビレックスBBと正式プロ契約を結びます。そして2021-22シーズン、シーホース三河へ移籍。ここからが本格的なプロキャリアのスタートです。

三河での1年目——結果は鮮烈でした。

平均11.3得点、FG成功率46.9%、アシスト3.4本。2022年3月23日の名古屋ダイヤモンドドルフィンズ戦ではキャリアハイとなる30得点を記録。シーズンを通じてBリーグ最優秀新人賞を受賞しました。 項目 数値(2021-22シーズン) 平均得点 11.3点 FG成功率 46.9% 平均アシスト 3.4本 個人最高得点 30得点

東海大で体に叩き込んだディフェンスへの意識と、もともと持っていたアウトサイドシュートの精度。その組み合わせが「3&D(スリーポイントシューター&ディフェンダー)」というスタイルとして結実したシーズンでした。

さらに「超ロングブザービーター」を沈める劇的な場面がSNSで拡散されたことで、「おでんくん」の愛称とともにBリーグファンの間での知名度も一気に高まります。


第六章:代表落選の悔しさ、そして「救世主」の登場

実は、西田の日本代表との関係は2017年の強化合宿招集から始まります。U-16代表、U-18代表と着実に世代別代表を経験し、東京五輪前には代表候補にも名を連ねていました。

しかし2021年の東京五輪——本大会の12名に西田の名前は入りませんでした。

この落選の悔しさが、次の飛躍の原動力になります。ホーバスHC体制の代表に定着すると、FIBAワールドカップ2023アジア地区予選では全10試合に出場。Window2のチャイニーズ・タイペイ戦では3ポイントシュートとペイントアタックを織り交ぜて27得点を叩き出しました。

そして最大のハイライトが訪れます。

2024年秋のFIBAワールドカップ2027アジア地区予選Window1——急きょ追加招集された西田は、2試合連続で21得点を記録します。左手から放たれる3ポイントシュートがコンスタントに決まり、ホーバスHCも「彼は本当にいい」と称賛。ファンの間では「救世主」「3Pやばすぎ」と絶賛の声が広がりました。

「ずっと準備してきてよかった」

試合後のこの言葉に、代表落選から積み上げてきた年月が凝縮されています。


第七章:桶谷ジャパンと「主力としての覚悟」

2026年、桶谷大新ヘッドコーチ体制がスタートした新生日本代表。西田は早々に「変化を実感している」とコメントし、新体制への順応を示しています。

シーホース三河の同僚であるリッチマンHCが日本代表アシスタントコーチを務めるという環境も、西田にとってはプラスに働くはずです。

「自分としてもプレーしやすくなる」

かつて「代表合宿のメンバーで最年少」だった時期が長かった西田が、今は若い選手を引っ張るリーダーシップを求められる立場になっています。「日本代表でもチームでも欠かせない存在になる」という言葉は、もはや宣言ではなく現実に近づいています。


まとめ:「おでんくん」が証明したこと

西田優大のキャリアを振り返ると、ひとつの共通点が見えます。

「嫌いだったことを好きになること」——ディフェンスがそうでした。「できなかったことを積み上げること」——大学4年間がそうでした。「悔しさを次の力に変えること」——東京五輪落選がそうでした。

徳島の海陽町から大濠、東海大、新潟、三河と渡り歩きながら、ひとつひとつ自分を作ってきた選手です。26歳の「おでんくん」は、2027年W杯・2028年ロス五輪に向けて、まだまだ成長の途中にいます。

日本バスケが世界に近づいていく先に、必ず西田優大の名前があるはずです。


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