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富樫勇樹という物語——167cmの司令塔が「日本バスケの顔」になるまで

2026年03月05日 · 読了 11分
富樫勇樹という物語——167cmの司令塔が「日本バスケの顔」になるまで

はじめに:32歳、選手投票で選ばれたキャプテン

2026年2月19日、桶谷大新ヘッドコーチ体制の日本代表が始動しました。

新しいチームのキャプテンを誰にするか——その決め方が「選手投票」でした。代表メンバーたちがそれぞれの意志で選んだリーダーの名前は、富樫勇樹。千葉ジェッツ所属、1993年生まれの32歳でした。

強制でも指名でもなく、仲間から選ばれる。それが今の富樫勇樹の立ち位置です。

身長167cm。日本でプレーするポイントガードの中でも、とりわけ小柄な体格です。でも彼のキャリアは、コートの中でも外でも「その高さじゃ無理だ」という声を、プレーで黙らせ続けてきた歴史でもあります。どこから話すべきか——やはり、新潟の少年がバスケボールに出会った日から始めるのが筋でしょう。


第一章:新発田の少年と、バスケットボール一家

富樫勇樹は1993年7月30日、新潟県新発田市に生まれました。バスケットボールを始めたのは小学1年生のことです。

これは偶然ではありません。父・英樹氏はバスケットボールのコーチで、母も学生時代にプレーしていました。姉も妹もバスケに親しむ家庭で、富樫は物心ついたころにはすでにボールを持っていました。

新発田市立本丸中学校では、父の指導のもとでチームを牽引します。2年時と3年時にはU-15、U-16の日本代表にも選ばれました。そして中学3年時の2008年、全国中学校大会(全中)の決勝——この試合がのちに「伝説の一戦」として語り継がれることになります。

富樫は36得点を叩き出し、チームを全国優勝へ導きました。対戦相手は京北中学の田渡凌。ライバルとの頂上決戦を制した「中学生・富樫勇樹」の名は、日本バスケの関係者の間で一気に広まります。


第二章:ケビン・デュラントが通った高校へ

中学卒業を控えた富樫に、ある人物から声がかかります。当時、浜松・東三河フェニックスのヘッドコーチを務めていた中村和雄氏——父と交流のあった指導者が「アメリカに行け」と背中を押しました。

富樫が選んだのは、アメリカ・メリーランド州のモントローズ・クリスチャン高校です。このチームはケビン・デュラント、グレイビス・バスケスなどのNBA選手を輩出してきた名門中の名門でした。

言葉も文化も違う環境に、15歳の少年が単身乗り込みます。英語はほとんど話せない状態からのスタートでした。チームメイトに数学を教えることで信頼を築き、少しずつコミュニティに溶け込んでいったといいます。

1年目からロスター入りを果たし、主にシックスマンとして起用された富樫は、2010年に同校が全米ランキング2位にランクインするシーズンに貢献します。身長167cmのポイントガードを、現地のコーチは「スピードで相手を抜き去るプレーが際立っている」と高く評価しました。チームメイトからは「Yuk(ユーク)」というニックネームで親しまれます。

高校卒業後はNCAAの大学からも勧誘を受けましたが、希望していた学費全額免除の条件が得られず、進学を断念。帰国を決意します。


第三章:プロデビュー戦、いきなりのダブルダブル

2012年、富樫は大学を経由せずにbjリーグの秋田ノーザンハピネッツに入団します。移籍先に地元・新潟ではなく秋田を選んだのは、ヘッドコーチが中村和雄氏だったからです。アメリカ行きを勧めてくれた恩師のもとでプロキャリアをスタートさせる——富樫らしい義理の通し方でした。

デビュー戦は2013年2月2日、富山グラウジーズ戦。高校卒業後に約10カ月間、実戦から遠ざかっていた状態でのデビューでしたが、結果は15得点・11アシストのダブルダブルでした。

このシーズン、チームプレーオフのセミファイナルで敗退するものの、富樫はbjリーグ新人賞を受賞します。

翌2013-14シーズン、中村HCは「今年は富樫のチームだ」と公言しました。富樫はその言葉に応えます。全試合にほぼフル出場し、1試合平均7.9アシストでアシスト王とベストファイブを同時受賞。ファイナルズでは痙攣に苦しみながらも30得点・5アシストを記録しました。チームは最終的に敗れましたが、「富樫勇樹」の名前は日本バスケ全体に知れ渡っていました。


第四章:NBAサマーリーグ、「TOGA!」の歓声

2014年夏、富樫はNBAへの挑戦を表明します。

ダラス・マーベリックスのサマーキャンプを経て、7月にはNBAサマーリーグのロスター入りが確定。日本人としては田臥勇太、川村卓也、竹内公輔に続く史上4人目の快挙でした。

5試合中4試合に出場した中で、7月16日のシャーロット・ホーネッツ戦が転機になります。約11分の出場で12得点を記録し、特に第3クォーター終了間際に放ったフローターショットはこの日のリーグトップ10プレーに選ばれました。

会場内では富樫がボールを持つたびに「TOGA!」の声援が飛びました。167cmの日本人がNBAのコートで観客を沸かせる光景——日本に届いた映像を見た人たちは、それが何か特別なことだと肌で感じたはずです。

その後、下部のDリーグ(現Gリーグ)テキサス・レジェンズと契約してシーズンに臨みましたが、NBA本契約には至りませんでした。翌2015年にはイタリアのディナモ・サッサリでプレシーズンを過ごすものの、レギュラーシーズン契約は結ばれず。2015年9月、千葉ジェッツへの入団が発表されます。


第五章:千葉ジェッツで積み上げた「圧倒的な数字」

千葉ジェッツ加入以降、富樫が積み上げてきた個人タイトルの数は、日本バスケ史上類を見ません。

Bリーグオールスターゲーム出場9回。Bリーグベストファイブ8回。アシスト王2回。月間MVP3回。シーズンMVP1回(2019年)。東アジアスーパーリーグ優勝とファイナルMVP(2024年)。天皇杯MVP3回。

2017年には1試合11本の3ポイント成功(当時Bリーグ最多タイ記録)。2019年には日本人初の年俸1億円プレーヤーとなりました。

記録はさらに続きます。2024年12月29日にはB1リーグ通算2500アシスト達成。そして2025年10月26日、千葉ジェッツ対サンロッカーズ渋谷の一戦でB1史上初となる個人通算1200本目の3ポイントを成功させました。

この瞬間、LaLa arena TOKYO-BAYは大歓声に包まれました。試合後、富樫はこう話しています。

「1本でも多くチームのためにこれからも決めていければと思っています。1500本は飛ばして、2000本できたらもう一回お祝いしていただきたい」

笑顔で言ってのける姿が、今の富樫の余裕を表しています。

この試合でチームはB1開幕最多連勝記録を更新する9連勝を達成。前年2024-25シーズンの成績(レギュラーシーズン50試合・平均13.9得点・5.0アシスト・3P成功率38.8%)に続き、2025-26シーズンも千葉ジェッツの司令塔として開幕から存在感を発揮しています。


第六章:日本代表キャプテンとして東京五輪・W杯を経験

富樫の代表歴は2011年に始まります。以来、ウィリアム・ジョーンズカップから始まり、アジア競技大会(2014年・銅メダル)、東京五輪(2021年)、FIBAワールドカップ(2023年)、パリ五輪(2024年)と、日本代表の中心として世界の舞台を戦ってきました。

特に2023年FIBAワールドカップは、日本バスケ史に残る大会になりました。48年ぶりに自力でのオリンピック出場権を獲得し、アジア1位で本大会に臨みます。河村勇輝、渡邊雄太ら若い力が中心となったチームで、富樫はそのバックボーンを支える役割を担いました。

2024年パリ五輪ではチームは11位。結果だけ見れば悔しさが残るシーズンでしたが、日本代表が世界の舞台で戦い続けるためのベースが確実に積み上がったことも事実です。

そして2026年2月、新体制が始動します。選手たちの投票で選ばれたキャプテンは、富樫勇樹でした。

FIBAワールドカップ2027アジア地区予選Window2、韓国戦(3月1日・沖縄サントリーアリーナ)へ向けて富樫はこう語っています。

「全員が戦う気持ちを持って、チームとして戦いたい」


まとめ:167cmが証明し続けていること

富樫勇樹のキャリアを振り返ると、節目ごとに「それは難しい」という声があったはずです。

167cmで全米トップ高校のロスターに入ること。NBAサマーリーグで「TOGA!」と呼ばれること。Bリーグで8度のベストファイブに選ばれること。代表の選手投票でキャプテンに選ばれること。

それをすべて実現してきました。

数字を並べてみましょう。 項目 数値 B1通算3P成功数 1200本以上(史上初) B1通算アシスト 2500本以上(史上最多) Bリーグベストファイブ 8回 オールスター出場 9回 代表歴 2011年〜継続

スピードとゲームメイクで積み上げたこの数字は、身長では生まれません。判断の速さ、準備の量、そして「続ける覚悟」から生まれます。

富樫勇樹は今も現役最前線にいます。2027年W杯、そして2028年ロサンゼルス五輪——まだ先がある。167cmの司令塔が、日本バスケを次の場所へ連れていく物語は、まだ終わっていません。


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