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196cmの不屈の翼——馬場雄大という生き方に、あなたもきっと、目が離せなくなる

2026年03月01日 · 読了 22分
196cmの不屈の翼——馬場雄大という生き方に、あなたもきっと、目が離せなくなる

2026228日更新


私がこの記事を書いている今、馬場雄大選手は長崎ヴェルカの一員として、B1リーグの首位を走っています。30試合全先発。攻守にフル回転しながら、チームを27勝3敗という圧倒的な成績に押し上げる原動力になりながら。

196cm、91kg。NBAの世界では「普通」の体格。突き抜けた身長があるわけでも、規格外のリーチがあるわけでもない。それでもこの男は、Gリーグの過酷なサバイバルを4シーズン戦い抜き、オーストラリアリーグで優勝を経験し、オリンピックのコートに立ち、30歳になった今もなおNBAの扉をノックし続けています。

河村勇輝選手を「172cmの革命児」と書いたとき、私の中にはもう一人、どうしても書かずにはいられない選手がいました。身長が「足りなかった」河村選手とは対照的に、身長だけでは「足りなかった」男。才能だけでは世界に届かないことを知り、努力と適応力だけを武器に道を切り拓き続けてきた馬場雄大選手のことを、今日はとことん書きたいと思います。


200cmの父の背中——富山で始まったバスケ人生

馬場雄大選手は1995年11月7日、富山県で生まれました。ただし、生まれたのは実は埼玉県。父・馬場敏春さんが三井生命の実業団チームに所属していた時代のことです。

この敏春さんという人物が、馬場選手の物語を語るうえで欠かせません。身長200cm。北越商業高校でエースとしてチームを国体優勝に導き、法政大学を経て三井生命でプレー。1979年のアジア選手権やモスクワ五輪予選では日本代表にも選ばれた、正真正銘のトップアスリートです。

敏春さんは25年半の勤務を経て三井生命を退職し、家族で富山に移住します。勇輝少年が小学2年生のときでした。そこから地元・奥田ミニバスケットボール教室のコーチとなり、やがて富山第一高校のバスケットボール部監督に就任することになります。

幼い雄大少年がバスケに触れたのは、3つ年上の姉がきっかけでした。姉が通うバスケットチームで敏春さんがコーチを務めることになり、雄大少年はいつも父の隣で試合を眺めていたそうです。ただし、じっと座って見ていたかというと全くそうではなく、体育館の内外をひたすら走り回っていたといいます。

実は野球チームからの誘いもあったのですが、母・由香利さんが一言、「野球部に行くならお弁当は作らないよ」。これで野球の道は断たれました。由香利さん自身もバスケ経験者で、息子にはバスケをやってほしいという思いがあったそうです。なんとも痛快な母の一言です。

敏春さんの教育方針で印象的なのは、「身長を伸ばせ」「目を悪くさせるな」「早く寝かせろ」という3つの口癖。ゲームやテレビの時間は厳しく制限し、毎晩寝る前にコップ一杯の牛乳を飲ませました。その甲斐あってか、馬場選手は小学校を卒業する頃には168cmに達し、中学入学時にはすでに170cmを超えていたそうです。

ここで注目すべきは、敏春さんが息子に「バスケをやれ」と強制したことは一度もなかったという事実です。元日本代表でありながら押しつけない。環境だけ整えて、あとは本人の意思に委ねる。この姿勢は、河村勇輝選手の父・吉一さんにも通じるものがあります。偉大な父たちの共通点が「強制しない」ことだというのは、育成における一つの真理かもしれません。

馬場選手本人はこう語っています。「バスケを始めたのもお父さんがきっかけですし、今でも父のおかげだと思っています。自分のバスケの原点は父にある」。この言葉には飾りがありません。ただ、感謝がある。


八村塁を「ヤンキー」から救った中学時代——奥田中という奇跡の学校

馬場選手が進んだのは、富山市立奥田中学校。ここで起きた出来事が、日本バスケの歴史を変えたと言っても大げさではありません。

馬場選手が中学3年になった2010年春、1年生として入学してきたのが八村塁選手でした。

当時の八村少年は、バスケを始めるつもりなど全くなかったそうです。小学校時代は野球少年で、陸上でも県大会の100mで優勝するほどの身体能力の持ち主。本人いわく「バスケやりたくなかった。なんもやらなくていいとも思っていた」。

ここで動いたのが、馬場選手をはじめとするバスケ部の先輩たちでした。体格に恵まれ、運動神経が飛び抜けた八村少年に、連日しつこく勧誘を続けたのです。八村選手は後にこう振り返っています。「本当にしつこかった」。

馬場選手自身はインスタライブで「お前がヤンキーに引っ張られないように頑張った。お前は優しいし、強そうだし。悪い道に行かないように」と笑いながら明かしています。八村選手が「雄大さんが助けてくださいましたよね。それは覚えている」と応えたとき、画面の向こうの空気が一瞬温かくなったのを、配信を見ていた誰もが感じたはずです。

もし馬場選手が声をかけなかったら。八村塁というNBA選手は存在しなかったかもしれない。日本バスケの歴史がまるで違うものになっていたかもしれない。その「たられば」を思うと、めまいがします。

奥田中のバスケ部を長年指導していた坂本穣治コーチは、指導で最も大切にしていることをこう語っています。「牙を抜かないこと」。良い子であることよりも、選手の個性を殺さないこと。八村選手が年上にもはっきりものを言えるタイプなのは、この「牙を抜かない」育成があったから。そして馬場選手もまた、坂本コーチのもとで「どんなチームでも融合できる」適応力を身につけたのです。

中学3年の秋、馬場選手の身長は185cmに到達。ここから敏春さんが付きっきりで教え始めたのが、後の代名詞となるダンクシュートでした。最初は小さなボールから始めて、徐々に大きくしていき、最終的にはバスケットボールでダンクを叩き込めるようになったといいます。


富山第一高校——父と子の3年間で生まれた「何でもできる翼」

高校進学を前に、馬場選手の心は県外の強豪校に傾いていました。全国で勝てる環境に身を置きたい。それは自然な感情です。

しかし、中学2年のジュニアオールスターが終わった後、敏春さんが息子にこう語りかけます。「ジュニアオールスターに出るような選手を集めて地元に強豪高校を作りたい。その先頭をおまえが切ってくれないか」。

自分たちの力でゼロから強いチームを作る。その挑戦に、馬場選手の心は動きました。敏春さんは4年計画で選手を集めてチームを強化する構想を描き、将来性のある選手たちを積極的に富山第一高校に入学させます。馬場選手はその計画の中心にいました。

結果として、馬場選手が高校2年、3年のときにウインターカップ出場を果たします。全国制覇には手が届かなかったものの、この3年間が馬場選手の「オールラウンダー」としての基礎を完成させたと、敏春さんは振り返っています。

「ポイントガードの手伝いをしなければならない。ボールを運ばなければならない、シュートを打たなければならない、ポストで1対1を仕掛けたり、オフェンスリバウンドも入らなければならない。リバウンドを奪ったら走らなければいけない。それは富山第一だからできたことであって、他の学校に行っていたら確実にポジションを決められていた」

強豪校に行けば、ポジションは固定される。でも富山第一という「発展途上」のチームだからこそ、馬場選手は何でもやらなければならなかった。ガードのように運び、フォワードのように得点し、センターのようにリバウンドに絡む。この「何でも屋」の経験こそが、後にGリーグやオーストラリアリーグで生き延びる武器になったのです。

高校1年でFIBAアジアU-16に出場してアジア3位。高校2年では、1学年上の渡邊雄太選手らとともに飛び級でU-18日本代表に選出されています。全国区ではなかった富山第一で、世界水準の選手が育っていた。それは偶然ではなく、父と子が3年間かけて積み上げた必然でした。


筑波大学——インカレ3連覇と「教員免許」という保険

筑波大学への進学は、推薦によるものでした。筑波では吉田健司コーチの指導のもと、アウトサイドプレーヤーとしての技術がさらに洗練されていきます。

ここで特筆すべきは、馬場選手の学業への姿勢です。インカレ3連覇に貢献しながら、教員免許の取得も並行して進めていました。これは敏春さんからの強い助言があったからです。

敏春さん自身、現役引退後に教員免許を持っていなかったことで再就職に苦労した経験がありました。だからこそ息子に繰り返し伝えたのです。「教員免許だけは頼むから取ってくれ」。富山第一高校で事務職員としてしか雇われず、本来なら教員として部活を指導したかったのに、時間の制約があってそれが叶わなかった。その無念が、息子へのアドバイスになっていたのです。

馬場選手はその言葉を受け止め、アルバルク東京に入団した後も教育実習をこなし、ちゃんと免許を取得しました。プロバスケットボール選手として走り始めた直後に教育実習。普通に考えれば、とんでもないスケジュールです。

でもこの「帰れる場所」を作っておいたことが、後のGリーグでのサバイバル生活、何度もの挫折を経ても折れなかった精神的基盤になったのではないかと、私は思っています。最悪の場合、体育教師として生きていける。その安全網があるからこそ、逆に思い切り夢を追える。リスクを取れる人間は、実はセーフティネットをちゃんと持っている人間なのだということを、馬場選手は体現しています。


アルバルク東京——プロの世界で即座に証明した「2連覇の男」

2017年、大学在学中にB1リーグのアルバルク東京と契約。ルーキーイヤーからBリーグ新人賞を受賞し、チームのリーグ優勝に貢献します。そして翌2018-19シーズンもチームは連覇を達成。プレイオフ・ファイナルの千葉ジェッツ戦で馬場選手は12得点、12リバウンド、6アシスト、2スティールという完璧なオールラウンドスタッツを叩き出し、ファイナルMVPに輝きました。

このときの馬場選手のコメントが印象に残っています。「世界で通用する選手になるためにBリーグを選んだ」。まだ23歳。Bリーグで2連覇してファイナルMVPまで獲った選手が、「ここがゴールではない」と言い切る。国内での満足を拒否する覚悟が、すでにこの頃からはっきりと見えていました。


テキサス・レジェンズでの「サバイバル」——才能では勝てない世界で

2019年夏、馬場選手はダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加。その後、Gリーグのテキサス・レジェンズに拠点を移します。

ここからが、馬場雄大という人間の真価が問われる期間でした。

Gリーグというのは、夢と現実が最も残酷な形で交差する場所です。チームメイトは味方であると同時に、自分のポジションを奪い合う競争相手。ロスターは頻繁に入れ替わり、昨日まで一緒にプレーしていた選手が翌日にはいなくなる。怪我をすれば即座に別の誰かが呼ばれる。さらにCOVID-19のパンデミックがシーズンを直撃し、先行きの見えない日々が続きました。

それでも馬場選手はキャリアハイの26得点を記録し、チームの中で存在感を放ち続けました。本人が何度もインタビューで語るのは、「ここで学んだ適応力」。ハッスルし続けるしかなかった。与えられた数分間の出場時間で、全力を出し切るしかなかった。

この時期を経て、馬場選手のプレースタイルは明確に変化しています。Bリーグ時代は身体能力を前面に出したアタッカーだったのが、3ポイントシュートとディフェンスを磨き、いわゆる「3&D」——スリーポイントとディフェンスを両立するウイングプレーヤーへと進化したのです。NBAの世界で日本人が生き残るなら、何でもできなければならない。富山第一で培った「何でも屋」の精神が、ここで再び息を吹き返しました。

2020-21シーズンにはオーストラリアNBLのメルボルン・ユナイテッドに移籍し、レギュラーメンバーとしてチーム優勝に貢献。その後、再びテキサス・レジェンズに戻り、2022-23シーズンまでGリーグでプレーしています。計4シーズン。海外の厳しい環境で、這い上がっては叩き落とされ、また這い上がる。その繰り返しでした。


長崎ヴェルカへの「電撃復帰」——止まったのではなく、助走だった

2023年秋、5シーズンぶりのBリーグ復帰。多くのファンが驚いたのは、選んだチームが長崎ヴェルカだったことです。2022年にB1へ昇格したばかりの若いクラブ。なぜ優勝経験のあるアルバルク東京や他の強豪ではなく、長崎だったのか。

理由は明確でした。GM・伊藤拓摩氏のアメリカでの豊富な経験。先発として思い切りプレーできる環境。そして当時の日本代表トム・ホーバスHCからも「先発でしっかりやれる場所に行け」とアドバイスを受けていたそうです。

馬場選手はこう語っています。「僕のゴールは全然変わってない。NBA選手になるためにやっている。長崎でプレーさせてもらうことが一旦ストップと思ってない」。

この言葉に胸を打たれたのは、私だけではないはずです。多くの選手が海外挑戦から日本に戻ると、それが「終着点」に見えてしまうことがある。でも馬場選手にとっての長崎は、NBAへの「架け橋」だった。止まったのではなく、より高く跳ぶための助走だったのです。

当初は「1年限定、パリ五輪準備期間」と公言していました。しかし長崎での日々が馬場選手自身を変えていきます。チームのエースとして攻守のすべてを担い、ディフェンスのベストプレーヤーに付き、得点もゲームメイクもこなす。「1から10までやった」シーズンを経て、馬場選手は長崎に残ることを決めます。

2024-25シーズンも長崎に残留。そして2025年夏にはニューヨーク・ニックスの一員としてNBAサマーリーグに参加。これが3度目のサマーリーグ挑戦でした。29歳での再挑戦。多くの人が「もういいのでは」と思ったかもしれない。でも本人の手応えは「今が一番いい」。

そして2025-26シーズン。3年目の長崎で、馬場選手は今、最も輝いています。


27勝3敗、B1首位——「以前より楽しめている自分がいる」

2025-26シーズン前半戦を27勝3敗のB1首位で終えた長崎ヴェルカ。馬場選手は30試合全てに先発出場し、平均12.4得点、4.2リバウンド、3.3アシストを記録しています。

数字だけを見れば、キャリアハイの数字ではないかもしれません。しかし馬場選手の本当の貢献はスタッツに表れない部分にあります。相手のエースを封じるディフェンス。若手選手を引っ張るリーダーシップ。そしてチームに根付き始めた「勝つ文化」の中心にいるという存在感。

ファンタジーポイントランキングでは日本人選手1位に輝き、地元長崎で開催されたBリーグオールスターにも出場。チームメイトの川真田紘也選手との「カステラ兄弟」コンビで会場を沸かせるなど、コート外でのキャラクターも愛されています。

長崎ヴェルカ公式noteでの最新インタビューが、今の馬場選手の心境をよく表しています。練習を終えて階段を下りながら、少しおちょくるように「今日はどんな話を引き出してくれるのかなー」と語尾に音符をつけて言う馬場選手。インタビュアーは「なんだかゴキゲンだ」と書いています。

「以前よりも楽しめている自分、楽しもうとしている自分がいる」。

30歳。海外で4年間のサバイバルを経験し、挫折も怪我も味わった末に、今が一番バスケを楽しめている。この言葉の重みは、彼のキャリアを知る人間にしかわからないものでしょう。オールスターブレイク中には五島列島で「ホカンス」(ホテル×バカンスの造語で、ホテル滞在そのものを楽しむ休暇)を満喫し、「こんなにガッツリ休んだのは本当に久しぶり。休みって大事なんだな」と笑ったそうです。

かつて「ハッスルし続けるしかなかった」Gリーグ時代とは、表情も言葉も違う。でも闘志は変わっていない。「今シーズンはもう、今までの僕たちではない、っていう自信はありますね」。静かに、でもはっきりとそう言い切る姿に、私は馬場雄大という選手の「今」を見ました。


アカツキジャパンの「頼れる翼」——代表の顔であり続ける覚悟

2016年から日本代表に名を連ね、FIBAワールドカップ2023、パリ五輪2024、FIBAアジアカップ2025と、主要国際大会の全てでコートに立ち続けている馬場選手。

パリ五輪ではチームの得点源として存在感を発揮し、196cmのウイングとして相手のエースを抑えつつ自らも攻撃を仕掛ける、まさに「両翼」の役割を果たしました。

2025年のアジアカップでは日本代表のキャプテンとしてチームを牽引。「もう一度W杯で得た興奮や思い出を」と語る馬場選手の言葉には、まだ見ぬ高みへの渇望がにじんでいます。

河村勇輝選手がNBAの舞台で日の丸を背負う一方、馬場選手はBリーグから代表に合流し、世界と戦う。立場は違えど、二人が同じコートで日本のユニフォームを着ている光景は、日本バスケの「今」を象徴する風景です。


馬場雄大の「何」が、こんなにも心を動かすのか

ここまで書いてきて、改めて思います。馬場雄大選手の魅力とは何か。

ダンクの迫力。ディフェンスの強度。サマーリーグに何度でも挑戦する不屈さ。もちろんそれらは凄い。でも、それだけなら「根性のある選手」で終わる話です。

私が馬場選手にどうしようもなく惹かれるのは、この人が「自分は特別ではない」ことを知ったうえで戦っている、という点にあります。

196cmという身長は、日本では大きい。でもNBAでは「普通」です。ウイングとして勝負するには、むしろ小さい部類に入る。身体能力は日本人離れしているけれど、NBA基準では突出しているとは言えない。河村選手のように「172cmなのに」という驚きの物語とは違う。馬場選手の場合は、「196cmなのに足りない」という、ある意味でもっと残酷な現実と向き合い続けているのです。

だからこそ、努力の質が違う。適応の速度が違う。Gリーグで生き残るために3&Dプレーヤーに自分を作り替え、長崎で求められればゲームメイカーにもなり、代表ではエースキラーを任される。一つの武器で勝負するのではなく、必要とされる武器を次々と獲得していく。

教員免許を取ったことも、八村塁をバスケに誘ったことも、富山第一で父とゼロからチームを作ったことも、すべてが地続きなのです。「自分にできることを、できる場所で、全力でやる」。その一貫した姿勢が、Gリーグのベンチでも、オリンピックのコートでも、長崎のクラブハウスの階段でも、変わらない。

もう一つ。馬場選手の人間的な温かさに、私は何度も心を掴まれています。八村塁を「ヤンキーにさせない」ためにしつこく声をかけた中学時代の面倒見の良さ。オールスターで川真田選手と「カステラ兄弟」を楽しむ茶目っ気。五島列島でホカンスを満喫して「休みって大事なんだな」と笑う30歳の素直さ。

派手なパフォーマンスで観客を煽るタイプではない。SNSで過激な発言をするわけでもない。でもコートに立てば、誰よりも走り、誰よりもぶつかり、誰よりも泥臭くボールを追いかける。そして試合後には穏やかな笑顔でインタビューに答える。

その静かな不屈さが、たまらなく好きなのです。


まだまだ物語の途中です

2026年2月現在、馬場雄大選手は30歳。B1リーグ首位の長崎ヴェルカで新シーズンを戦いながら、NBAの扉をもう一度ノックする準備を続けています。

チームは「今までの僕たちではない」と本人が自信を持って語るほどの成長を遂げ、チャンピオンシップという新たな目標が見えてきました。日本代表としても、次のワールドカップ、次のオリンピックに向けた戦いが続きます。

この先にどんな景色が待っているのか。NBA本契約の日は来るのか。長崎でBリーグの頂点に立つ日は来るのか。

正直なところ、結果がどうなるかはわかりません。でも一つだけ確信していることがあります。馬場雄大という人間は、どんな状況に置かれても、自分にできることを黙々とやり続ける。Gリーグのサバイバルで学んだ「ハッスルし続けるしかない」という哲学を、30歳になった今も、笑顔の奥に宿し続けている。

その姿を見届けたいから、私はこれからも馬場雄大選手を追いかけ続けます。


この記事は各種報道、公式プロフィール、インタビュー記事等の公開情報をもとに、筆者が独自の視点でまとめたものです。事実関係には細心の注意を払っていますが、誤りがあればご指摘ください。