Bリーグ

並里成——スラムダンク奨学生第1号が17年目に辿り着いた新天地、横浜ビー・コルセアーズへ

2026年05月20日 · 読了 13分
並里成——スラムダンク奨学生第1号が17年目に辿り着いた新天地、横浜ビー・コルセアーズへ

2026年5月20日執筆|読了 約16分


2026年5月19日、横浜ビー・コルセアーズが一つの契約を発表しました。

並里成(なみざと なりと)、2年契約で新規加入。背番号33。

36歳。プロ17年目。キャリアで9チーム目の所属先。この数字だけを見れば「ベテランの移籍」に過ぎないかもしれません。

でも、並里成という名前が持つ意味を知っている人にとって、このニュースは特別なものです。

井上雄彦が創設したスラムダンク奨学金の第1期生。『SLAM DUNK』の名を背負ってアメリカに渡り、挫折を経験し、帰国してプロの世界に飛び込んだ男。bjリーグで「ファンタジスタ」と呼ばれ、琉球で優勝し、群馬で輝き、FE名古屋でキャプテンを務めた。そのキャリアの全てが、日本バスケの歴史そのものです。

その男が今、Bプレミアの横浜で新しい章を開く。

これまで皆さんが作り上げてきたカルチャーを大事にしながら、チームにさらに新しいエナジーを与えていけたら

36歳のファンタジスタは、まだ走り続けています。


沖縄の「6チャンネル」から始まった夢

並里成は1989年8月7日、沖縄県で生まれました。実兄の並里祐もバスケットボール選手。バスケが身近にある家庭で育っています。

沖縄には米軍基地があり、当時はアメリカ軍放送網(AFN)——地元の人たちが「6チャンネル」と呼ぶテレビ放送を見ることができました。そこで流れるNBAの中継を、少年時代の並里は食い入るように見ていたそうです。

「6チャンネルで中継されるNBAを、テレビ越しでありながら身近に感じて育ちました。だから小学校低学年くらいにはNBAに憧れてました」

沖縄の風土の中で、NBAは「テレビの向こうの世界」ではなく、フェンスの向こう側に実在する世界でした。その距離感が、後の並里のプレースタイル——アメリカのストリートバスケを彷彿とさせる自由奔放な創造性——の原点にあるのでしょう。

コザ中学校でバスケの腕を磨き、中学3年時には全国中学校バスケットボール大会でベスト8。複数の高校から誘いを受ける中、選んだのは福岡第一高校でした。


福岡第一と井手口監督——「ファンタジスタ」誕生の舞台

福岡第一を選んだ理由を、並里選手はこう語っています。

「夢はNBA。その為に1年生の時から試合に出て経験を積めて、セネガル人留学生とコミュニケーションがとれる福岡第一に入学した」

井手口孝監督が2〜3回沖縄に足を運んでくれた熱意。チームの試合を映像で見て感じた団結力。そして留学生がいること。将来NBAを目指すなら、高校のうちから外国人選手と日常的にコミュニケーションを取れる環境がいい。15歳の少年は、すでに逆算の戦略を持っていました。

入学後、並里選手は1年生からスタメンに起用されます。そして2005年のウインターカップ——福大大濠を下して優勝。1年生ながら大会ベスト5に選出されました。

月刊バスケットボールはこの時の並里選手を「ファンタジスタ」と評しています。抜群のスピードに複雑なフェイントを組み合わせたドライブ。相手はディフェンスどころか、ファウルすらできない。次に何が飛び出すか予想できない創造性。172cmの小柄な体から繰り出されるプレーは、まさに「手が付けられない」ものでした。

2年時にはU-18日本代表に選出。3年時にはインターハイベスト4、ウインターカップ準優勝(洛南に敗戦)、再びベスト5。福岡第一の3年間で、並里選手は全国区のスターになりました。

そしてここで、運命の出会いが訪れます。


スラムダンク奨学金——井上雄彦が開いた扉

高校3年に進級する前の2月頃。井手口監督が並里選手に一枚のページを差し出しました。月刊バスケットボールに載っていた、小さなモノクロの広告。

「スラムダンク奨学金 第1回奨学生募集」。

『SLAM DUNK』の作者・井上雄彦氏が、日本のバスケ界への恩返しとして創設した奨学金制度。高校卒業後にアメリカのプレップスクールに留学し、NCAA(全米大学体育協会)の大学進学を目指すための支援プログラムです。

並里選手はそのページを見て、「運命だ」と感じたそうです。

「見てすぐ『はい、挑戦してみたいです』と返事をしたら、(井手口監督が)すぐ動いてくださって」

選考を通過し、2008年、並里成はスラムダンク奨学金第1期生としてアメリカ・コネチカット州のサウスケントスクールに渡りました。チームメイトには、後にNBAオールスターに選出されるアイザイア・トーマスがいました。

しかし、アメリカでの日々は華やかなものではありませんでした。南国・沖縄出身の並里選手にとって、コネチカットの冬は堪えた。雪に閉ざされたキャンパスで、夜10時に外部との接触を断たれる生活。英語力が伸び悩み、大学進学に必要なレベルに達しなかった。

「いっぱいいっぱいでした。ストレスも相当溜まっていて。『本当に自分がここにいて正しいのかな』とすら考えるようになっていました」

結果として、大学進学は叶わず帰国。選手として一定の評価は受けたものの、学業面——特に英語能力——が壁になりました。

この「挫折」は、並里選手のキャリアにおいて最も重要な経験の一つだと私は思っています。夢に向かって飛び立ち、壁にぶつかり、それでも折れずに次の道を見つける。この力は、その後の17年間のプロキャリアを支え続けることになります。


プロの世界へ——栃木、琉球、そして放浪の旅

2009年7月、帰国した並里選手はリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)とプロ契約を結びます。JBL(日本バスケットボールリーグ)での高卒ルーキーは川村卓也に次いで2人目。平成生まれの選手としてはJBL初でした。

しかし栃木での2シーズンは、十分な出場機会を得られませんでした。並里選手はNBA挑戦を決意しますが、NBAはロックアウト中。結局、bjリーグの琉球ゴールデンキングスと契約することになります。

琉球での並里選手は、まさに「覚醒」でした。故郷・沖縄のチームで水を得た魚のように躍動し、bjリーグ優勝メンバーに。ベストファイブ、オールスター出場。「ファンタジスタ」の名は、bjリーグ全体に轟きました。

その後のキャリアは、まさに「放浪の旅」です。大阪エヴェッサ、滋賀レイクスターズ、再び琉球(4シーズン)、群馬クレインサンダーズ、ファイティングイーグルス名古屋。9つのチームを渡り歩く。

この移籍の多さを「落ち着きがない」と見る人もいるかもしれません。でも私は違う見方をしています。どのチームに行っても、並里成は「必要とされる」選手であり続けた。 36歳でBプレミアのチームから2年契約のオファーを受けるという事実が、その証明です。


FE名古屋での2年間——キャプテンとしての成熟

2024-25シーズンからFE名古屋に加入した並里選手は、すぐにキャプテンに任命されます。

B1リーグ戦全60試合に先発出場し、平均7.9得点・4.3アシスト・2.5リバウンド。35歳にしてフル稼働。チームの攻撃リズムを整え、若手選手の成長を促し、コーチ陣と選手の間を繋ぐ——プレーだけでなく「存在」でチームに貢献しました。

2025-26シーズンも契約を継続し、FE名古屋の中心選手としてプレー。しかしFE名古屋が2026-27シーズンから新B2「Bワン」への参戦が決まったことで、並里選手はBプレミアでプレーを続ける道を選択します。

FE名古屋ファンへの別れのコメントは、17年目のベテランらしい誠実さに溢れていました。

「この2年間、FE名古屋に自分の全てを費やしてきました。あたたかいファンの皆さんと戦った2年間は絶対に忘れられません。どんな時も支えてもらって力になりました。またいつか同じコートでできることを楽しみにしてます。2年間本当にありがとうございました」


横浜ビー・コルセアーズ——新天地で求められる「つなぐ力」

そして2026年5月19日、横浜ビー・コルセアーズへの加入が発表されました。

横浜BCは近年、外国籍選手の活躍と日本人選手の底上げで上昇傾向にあるチームです。2025-26シーズンには横浜アリーナで約1万2千人を動員する単独開催を実現するなど、エンターテインメント面でも進化を続けています。

並里選手が横浜BCにもたらす最大の価値は、自身のコメントに凝縮されています。

コーチ陣と選手たちをうまくつなぎながら、チームが一致団結できるようなリーダーにもなれるよう頑張っていきます

「つなぐ」という言葉。これは並里選手のポイントガードとしてのプレースタイルそのものでもあり、17年間で9チームを経験してきた人間だからこそ言える言葉でもあります。

コートの上ではボールを「つなぐ」。ロッカールームではコーチと選手を「つなぐ」。ベテランと若手を「つなぐ」。並里選手の36歳のバスケは、この「つなぐ力」に集約されつつあるように見えます。


井手口監督→並里成→河村勇輝——福岡第一の「PGリレー」

ここで、このブログの過去記事と繋がる話をさせてください。

井手口孝監督の記事で書いた通り、福岡第一は「ポイントガード育成の名門」です。並里成、鵤誠司、そして河村勇輝。井手口監督のもとで育ったPGたちは、それぞれの舞台で日本バスケを牽引しています。

並里選手は福岡第一PGの「初代」とも言うべき存在です。井手口監督が「走らんか!」のスタイルを確立し始めた時期に入学し、1年生から全国を制覇した。その成功が、後の福岡第一のブランド力——「ここに来ればPGとして日本一になれる」——を確立する礎になりました。

河村勇輝選手が福岡第一を選んだのも、並里選手をはじめとする先輩たちが作り上げた伝統があったからこそ。並里選手のアメリカ挑戦が、井上雄彦のスラムダンク奨学金の「成功例」として語り継がれたことも、後のバスケ少年たちに夢を与えた。

並里成→鵤誠司→河村勇輝。福岡第一のPGリレーは、日本バスケのPG史そのものです。


36歳のファンタジスタが教えてくれること

並里成のキャリアを振り返って、私が最も心を打たれるのは「折れない心」です。

スラムダンク奨学金でアメリカに渡り、大学進学を断念して帰国した。栃木で出場機会に恵まれなかった。NBAロックアウトで挑戦の道が閉ざされた。9チームを渡り歩いた。

その一つ一つが「挫折」と呼べる経験です。でも並里選手は、一度も折れなかった。一度もバスケを嫌いにならなかった。どのチームに行っても全力でプレーし、どのチームのファンからも愛された。

36歳で新天地に飛び込む姿を見て、比江島慎選手の記事で書いた「バスケットボールは年齢じゃない」という言葉を改めて思い出しました。比江島選手が35歳でEASL MVPを獲るように、並里選手もまた36歳で「新しいエナジー」を注入しようとしている。

スラムダンク奨学金第1期生が、17年経った今もBプレミアの舞台に立ち続けている。井上雄彦氏がこのニュースを見た時、何を思うでしょうか。自分が作った制度の第1号が、まだコートの上で走り続けている。その事実は、スラムダンク奨学金の「最大の成功例」かもしれません。

横浜ビー・コルセアーズの海賊旗のもと、36歳のファンタジスタの新しい航海が始まります。


ばすけばか14より
並里成選手の新天地での活躍を、一緒に応援しましょう!


この記事は横浜ビー・コルセアーズ公式、FE名古屋公式、B.LEAGUE公式、バスケットボールキング、バスケットカウント、Wikipedia、集英社スラムダンク奨学金公式等の公開情報をもとに、筆者が独自の視点でまとめたものです。事実関係には細心の注意を払っていますが、誤りがあればご指摘ください。2026年5月20日時点の情報に基づいています。