Bリーグ

陸川章——「心の山」と「技術の山」を登り続けた男、東海大バスケ25年の軌跡

2026年05月18日 · 読了 15分
陸川章——「心の山」と「技術の山」を登り続けた男、東海大バスケ25年の軌跡

2026年5月執筆|読了 約18分


2000年、東海大学湘南キャンパスの体育館。

新しく赴任したヘッドコーチが、ホワイトボードに2つの目標を書きました。

「1部昇格」「インカレ出場」。

当時、東海大学男子バスケットボール部SEAGULLSは関東大学リーグ3部に所属する無名のチーム。部員たちはその目標を見て、笑いました。冗談だと思ったのです。

しかし一人だけ、目がギラギラした新入生がいました。後に東海大の主将となり、引退後は母校の後任ヘッドコーチに就任する入野貴幸——この瞬間が、陸川章と東海大SEAGULLSの25年間の物語の、最初の1ページでした。

それから25年。

関東リーグ3部から1部昇格。インカレ優勝7回。関東リーグ優勝6回。 竹内譲次、田中大貴、河村勇輝をはじめ、数え切れないBリーガーと日本代表選手を輩出。東海大は大学バスケ界の「絶対王者」になりました。

2024年12月、陸川章はヘッドコーチを退任。現在はアソシエイトコーチとしてチームに残り、後進を支えています。

片峯聡太コーチが「革新者」、井手口孝監督が「開拓者」ならば、陸川章は「登山家」です。「心の山」と「技術の山」——二つの山を登り続けた男の物語を書きます。


高校でバスケに出会い、日本代表のセンターになった男

陸川章は1962年3月11日、新潟県で生まれました。

意外なことに、バスケを始めたのは高校生になってからです。中学時代は陸上部で中距離走を走っていた。身長が190cm近くまで伸びた高校時代、同級生に誘われてバスケ部に入ったのがきっかけでした。

新潟県立新井高校のバスケ部。全国の強豪とは程遠い環境でしたが、陸川青年は持ち前のフィジカルと走力で頭角を現します。「走れるビッグマン」として注目を集め、日本体育大学に進学。大学でもバスケに没頭し、卒業後は実業団の日本鋼管(NKK)に入社しました。

NKKではサラリーマンとセンターの二足のわらじ。そして日本代表にも選出されます。キャプテンも務め、世界大会を経験。「走れるビッグマン」は「日本を背負うセンター」になりました。

しかし1999年、バブル崩壊の余波でNKKのバスケ部が廃部に。約15年間にわたる選手生活に、37歳で突然の幕が降りました。


37歳の転身——サラリーマンからコーチへ、渡米の決断

NKK廃部後、陸川はしばらく社業に専念しました。日本初と言われるプロジェクトを成功させるなど、ビジネスマンとしても結果を出した。

でも、どうしてもバスケが忘れられなかった。

妻の承諾を得て、陸川は退職を決意します。そしてアメリカへ渡りました。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校でコーチングを学ぶ。NCAAの指導現場を間近で見て、日本にはない「選手の主体性を引き出すコーチング」に衝撃を受けます。

ここで出会ったのが、恩師デイブ・ヤナイ氏。ヤナイ氏から学んだ言葉が、陸川の指導哲学の根幹になります。

選手は機械じゃない。心がある。心を育てなければ、本当の強さは生まれない

この言葉が、後に「心の山」と「技術の山」という陸川独自の指導理念に結晶していくのです。


東海大HC就任——3部からの出発、ホワイトボードに書いた「不可能な目標」

2000年度、東海大学男子バスケットボール部のヘッドコーチに就任。

冒頭で触れたように、当時の東海大は関東リーグ3部。大学バスケ界では無名の存在でした。練習環境も選手の質も、1部の強豪校とは比べものにならない。

しかし陸川コーチは、初日から「1部昇格」「インカレ出場」をホワイトボードに掲げました。

「みんな大笑いですよ。誰もそんなことができるなんて思っていない。でも1人だけ、目がギラギラしたやつがいた」

その「ギラギラした1人」が入野貴幸。陸川組の1期生であり、24年後に後任HCとなる男でした。

陸川コーチは情熱的なリクルーティングと組織づくりで、着実にチーム力を引き上げていきます。3年目には石崎巧、竹内譲次ら世代屈指の才能が入部。入野主将のもとで1部昇格を達成。そして就任5年目の2005年、インカレ初優勝

3部からインカレ制覇まで、わずか5年。ホワイトボードに書いた「不可能な目標」は、現実になりました。


「心の山」と「技術の山」——陸川哲学の核心

陸川コーチの指導を語る上で欠かせないのが、「2つの山」の概念です。

「技術の山」: シュート、ドリブル、パス、ディフェンスの技術。戦術理解。フィジカル。バスケットボール選手として必要な全てのスキル。

「心の山」: 人間性、主体性、チーム愛、感謝の気持ち、逆境に立ち向かう強さ。バスケットボールを超えた、人間としての基盤。

陸川コーチの信念は明確です。技術の山だけを登っても、心の山が伴わなければ本物の強さは得られない。逆に、心の基盤があれば技術は自然と伸び、困難な状況でも崩れないタフなチームが完成する。

この哲学は、渡米時代にヤナイ氏から学んだ「選手は機械じゃない」という言葉の実践です。練習で怒鳴るのではなく、選手に「なぜ」を考えさせる。否定的な言葉を極力避け、ポジティブなフィードバックで主体性を引き出す。選手を「親父代わり」として見守りながら、一人ひとりの人間的成長にコミットする。

「勝利至上主義ではなく、選手が社会人として輝ける人間性を育てる」。この姿勢は、片峯聡太コーチの「日本一カッコ良く素敵なチーム」、井手口孝監督の「卒業時に『第一に来てよかった』と思える選手を育てたい」と通底しています。高校であれ大学であれ、日本バスケの名将たちが共有する「人間教育」の信念がここにあります。


ディフェンスのアイデンティティ——「グッドディフェンスで簡単にはやられない」

戦術面で陸川コーチが最も重視したのはディフェンスです。

「グッドディフェンスで簡単にはやられない」。これが東海大SEAGULLSのチームアイデンティティになりました。

激しいディフェンスからのトランジション。相手のミスを誘い、速い展開で得点する。この構造は、実は井手口監督の福岡第一「走らんか!」と共通するものがあります。ディフェンスを土台にした速攻型バスケは、日本人選手の「走力」と「激しさ」を最大化する戦術として、日本バスケ界に一つの潮流を作りました。

陸川コーチのディフェンス哲学がユニークなのは、それを「心の山」と結びつけている点です。ディフェンスは地味で辛い。華やかなオフェンスと違い、観客の目に留まりにくい。でもディフェンスを頑張れるかどうかは、「チームのために自分を犠牲にできるか」という心の問題。つまりディフェンスの強さは、心の山の高さの表れなのです。


河村勇輝という「最高傑作」

陸川コーチが輩出した選手の中で、最も象徴的な存在が河村勇輝です。

福岡第一高校で井手口監督のもと「自分で決める力」を身につけた河村選手は、東海大学に進学。ここで陸川コーチの「心の山」哲学と出会います。

井手口監督が「自主性の尊重」で河村選手の原石を磨いたとすれば、陸川コーチは「主体性と人間性の深化」でその原石をダイヤモンドに仕上げた。高校と大学、二人の名将のリレーが、172cmの司令塔をNBA選手にまで押し上げたのです。

陸川コーチは河村選手について多くを語ることはありませんが、FLY MAGのロングインタビューでは「恩師」として河村選手との関係が詳しく描かれています。技術指導だけでなく、人間としての成長を見守り、世界に送り出す。それが陸川コーチにとっての「育成」なのです。

竹内譲次、田中大貴——陸川コーチの手を通って日本代表に上がった選手のリストは、そのまま日本バスケの歴史年表になります。


国際経験へのこだわり——WUBSと「世界基準」の体感

陸川コーチの指導で特筆すべきは、国際経験への徹底的なこだわりです。

自身が日本代表として世界大会を戦った経験から、「国際試合でしか得られないものがある」と確信していた陸川コーチは、WUBS(World University Basketball Series)などの大学国際大会を通じて、選手に「世界基準」を体感させ続けました。

「世界大会では、思いが強い方が勝つ。国を背負ったぶつかり合いになる」

フィリピンのアテネオ大学、台湾の国立政治大学、アメリカのラドフォード大学——海外の強豪と対戦することで、選手たちは自分のスキルがどこまで通用するかを肌で知る。この経験が、Bリーグや日本代表でのパフォーマンスに直結していく。

陸川コーチは国際大会での敗戦を「成長のチャンス」と捉えます。「負けるが勝ちだわや」——新潟弁で「負けたって、それが勝ちにつながるんだ」という意味のこの言葉は、陸川コーチの著書のタイトルにもなっています。敗北から学び、次に活かす。それもまた「心の山」を登ることなのです。


バトンタッチ——入野貴幸への25年越しの信頼

2024年12月、陸川章は東海大のヘッドコーチを退任しました。

後任は入野貴幸。陸川組1期生。あのホワイトボードの前で唯一「目がギラギラしていた」新入生です。

入野は東海大で主将を務めた後、東海大学付属諏訪高校の監督として全国指折りの強豪校に育て上げ、ザック・バランスキー、福澤晃平、黒川虎徹らBリーガーを輩出。U18日本代表のアシスタントコーチも務めた実力者です。

陸川コーチが入野を後任に選んだ理由は、バスケの指導力だけではありません。

「入野はとにかく賢い。院で体育哲学を専攻して、100枚で十分な修士論文を211枚書いた男ですから」

「東海大には『監督は現役の教職員が務める』というルールがある。バスケのコーチング以外のところを含めて網羅できる人間は入野しかいなかった」

入野自身もこう語っています。「スタートで出る者。控えで出る者。出られない者。それぞれの立場を知っていることは、今、コーチとしてすごく生きていると思います」。1期生として3部からスタートし、石崎巧や竹内譲次という超高校級の後輩が入ってきた時に出場機会を失いながらも、主将としてチームをまとめ上げた経験。その全てが、HCとしての財産になっている。

25年前にホワイトボードの前で目をギラつかせた1年生が、師匠からバトンを受け取る。この物語の美しさに、私は胸を打たれます。


64歳、アソシエイトコーチとして——「心の山」を登り続ける

退任後の陸川コーチは、アソシエイトコーチとして東海大に残っています。

ビッグマンの育成やメンター的な役割を担いながら、入野新HCを支える。公開講座やクリニックでは若手指導者に「常勝の極意」を伝え、書籍『負けるが勝ちだわや』では自身のバスケ人生と指導哲学を詳述しています。

64歳になった今も、「心の山」を登り続けている。それが陸川章という人間です。


三人の名将が描く「日本バスケの育成地図」

ここで、このブログで書いてきた三人の指導者を並べてみます。

片峯聡太(福大大濠・U18代表HC): 「5人全員が状況判断する」論理型。38歳の革新者。

井手口孝(福岡第一): 「走らんか!」ディフェンスからの速攻。63歳の開拓者。

陸川章(東海大): 「心の山と技術の山」。64歳の登山家。

三者三様の哲学ですが、共通しているのは「人間教育」への信念です。バスケの技術だけでなく、人間としての成長を最優先にする。勝利と育成を両立させる。その結果として、日本代表やNBAに繋がる選手が育つ。

さらに面白いのは、この三人が「繋がっている」ことです。河村勇輝選手は井手口監督→陸川コーチのリレーで育った。片峯コーチと井手口監督は福岡で切磋琢磨する関係。陸川コーチはユニバーシアード日本代表HCとして国際経験を蓄積し、井手口監督はU-16日本代表ACとして八村塁選手の世代を支えた。

高校と大学、福岡と湘南、それぞれの現場で磨かれた哲学が、選手というバトンを通じて繋がっている。この「育成のリレー」こそが、日本バスケの強さの源泉です。


「心の山」の頂は、まだ見えない

陸川章のキャリアを一言で表すなら、「登り続ける人」です。

高校でバスケに出会い、日本代表のセンターになった。37歳でNKK廃部という挫折を味わい、渡米してコーチングを学び直した。3部の無名チームを大学バスケの頂点に導いた。25年間の集大成として、最も信頼する教え子にバトンを渡した。

そのどの段階でも、陸川コーチは「心の山」を登ることをやめなかった。選手を育てることは、自分自身も成長すること。勝つことは大事だが、それ以上に大事なのは、選手が社会に出た時に「東海大で陸川先生に出会えてよかった」と思えること。

「負けるが勝ちだわや」。

敗北も、挫折も、全ては次の一歩への糧。この言葉は、バスケに限らず、人生そのものへのメッセージです。

陸川章が登り続けた「心の山」の頂は、きっとまだ見えていない。64歳のアソシエイトコーチは、今日もコートに立ち、選手の目を見て、語りかけているはずです。

「心の山を登ろう」と。


ばすけばか14より
日本バスケの名将たちの哲学を、一緒に学びましょう!


この記事はFERGUS、バスケットカウント、REAL SPORTS、tandh.net、タウンニュース、Wikipedia、東海大学公式等の公開情報をもとに、筆者が独自の視点でまとめたものです。事実関係には細心の注意を払っていますが、誤りがあればご指摘ください。2026年5月時点の情報に基づいています。