井手口孝——「走らんか!」で部員ゼロからNBA選手を育てた男、福岡第一30年の不屈
2026年5月執筆|読了 約18分
1994年、福岡第一高校。
男子バスケットボール部の部員は、ゼロでした。
体育館の使用権もない。実績もない。予算もない。あるのは、31歳の教員が一人と、「ここに日本一のチームを作る」という途方もない夢だけ。
それから30年。
2026年現在、福岡第一は全国タイトル通算10回を誇る高校バスケの名門校に成長しました。インターハイ優勝5回、ウインターカップ優勝5回。卒業生には河村勇輝(NBAシカゴブルズ)、並里成、鵤誠司をはじめとする日本代表選手・Bリーガーがずらりと並びます。
その全てを率いてきたのが、井手口孝(いでぐち たかし)。63歳。創部者にして現役監督。校長代理も務めながら、今もなおコートサイドに立ち続けています。
前回の記事で福大大濠の片峯聡太コーチを「革新者」と書きました。ならば井手口監督は何か。私はこう表現したい。「開拓者」です。何もない荒野に道を作り、その道を30年間走り続けた男。
今日は、その30年の全てを書きます。
部員400人の三軍から始まった指導者人生
井手口孝は1963年生まれ、福岡県出身。
西南学院高校を経て日本体育大学に進学。日体大のバスケ部は当時、部員400人超を擁する超強豪。その中で井手口青年は三軍に所属していました。レギュラーには程遠い。試合に出る機会はほとんどない。
しかし、この「不遇の時代」が井手口監督の指導哲学の原点になります。
「不遇の時代をどう過ごすか。それが人間としての価値を決める」
自分はプレーヤーとしては大成しなかった。でも、バスケが好きだという気持ちは消えなかった。ならば指導者として生きよう。日体大時代は学生コーチとして女子高の指導を経験し、卒業後は中村学園女子高や第一保育短期大学で様々な部活の指導に携わりました。
そして1994年、31歳で福岡第一高校に赴任。ここから「走らんか!」の物語が始まります。
部員ゼロからの創部——パラマバスケットボール塾という種
福岡第一に着任した井手口監督を待っていたのは、バスケ部が存在しないという現実でした。
普通なら途方に暮れるところですが、井手口監督には一つの「種」がありました。地域のバスケスクール「パラマ・バスケットボール塾」を母体に、そこで指導していた中学生たちを福岡第一に呼び込む戦略です。
部員を集め、練習場所を確保し、ユニフォームを揃え、練習メニューを組む。全てがゼロからのスタート。しかも福岡県は、福岡大学附属大濠高校という絶対王者が君臨するバスケ激戦区。無名の新設チームが割って入る余地など、普通に考えれば皆無でした。
しかし井手口監督は、大濠と同じバスケをしようとは考えませんでした。
「走らんか!」——激しさで勝つスタイルの確立
井手口監督が選んだ武器はディフェンスからの速攻。
激しいフルコートプレスディフェンスで相手のミスを誘い、そこからの速い展開で得点する。サイズがなくても、走力と激しさで勝負する。「走らんか!」の掛け声のもと、福岡第一のスタイルは確立されていきました。
このスタイルが選ばれた背景には、現実的な判断があります。創部間もないチームに、全国から有望選手が殺到するわけがない。大型選手もいない。ならば、誰よりも走り、誰よりも激しくぶつかり、相手がついてこられない速さで攻める。身体能力の差をメンタルの差で覆す。
井手口監督自身が「リクルートはあまり上手くない」と自認しているのは面白いエピソードです。大濠や東山のように全国から超高校級の選手を集めるのではなく、「三度の飯よりバスケが好きで、不遇でも腐らない子」を見つけ、徹底的に鍛え上げる。
この哲学が実を結んだのが、創部5年目の1998年。インターハイに初出場。そして2004年にはインターハイ初優勝を達成しました。部員ゼロから10年。日本一。
福岡決戦——大濠との30年戦争
福岡第一の歴史を語る上で、福岡大学附属大濠との関係は避けて通れません。
同じ福岡県に二つの全国屈指の強豪が存在する。県予選が事実上の「もう一つの決勝戦」になる。大濠の片峯聡太コーチが「日本一カッコ良く素敵なチーム」を掲げるなら、井手口監督は「走らんか!」で真正面からぶつかる。
2025年のウインターカップ県予選では、インターハイの県予選で大濠に51-58で敗れ、インターハイ出場を逃すという屈辱を味わいました。井手口監督はこの後の日々を「地獄の夏」と表現しています。
しかし九州ブロック大会の決勝で再び大濠と対戦し、今度は勝利してウインターカップ出場権を掴みました。「結果的にウチと大濠の決勝になって、ウインターカップの枠を持って来ることができて、優勝もできました」。淡々と語る言葉の裏に、どれほどの執念があったか。
この「福岡決戦」が両チームを鍛え上げてきたのです。大濠がいるから福岡第一は強くなり、福岡第一がいるから大濠も強くなる。片峯コーチと井手口監督の哲学は全く違うのに、互いの存在が互いを高め合っている。この構図こそが、福岡県から日本代表選手が次々と生まれる理由の一つでしょう。
河村勇輝を育てた男——「怒ったのは2度だけ」
井手口監督の指導者としての真骨頂が表れているのが、河村勇輝選手の育成です。
172cmの小柄なガードが福岡第一に入学してきた時、井手口監督はこの選手の「特別さ」をすぐに見抜きました。しかし、特別だからといって特別扱いはしなかった。河村選手にも他の部員と同じ走り込みをさせ、同じディフェンスの激しさを求めた。
ただし一つだけ違ったのは、自主性の尊重です。
「河村を怒ったのは2度だけ」。井手口監督がこう語るエピソードは有名ですが、これは「甘やかした」という意味ではありません。河村選手が自分で考え、自分で判断し、自分で挑戦する環境を意図的に作ったということ。怒るのではなく、考えさせる。命令するのではなく、選ばせる。
この指導が、河村選手の「判断力」と「自主性」を育てた。Bリーグで172cmのガードが得点王争いに加わり、NBAへの挑戦を続けられるのは、高校時代に「自分で決める力」を身につけたからこそ。
井手口監督が「伸びる選手の共通項」として挙げるのは3つです。「努力を当たり前にできるか」「不遇の時期をどう乗り越えるか」「周囲を大切にできる人間性」。技術ではなく、人間としての質。その質が高い選手ほど、最終的に上に行く。
「三度の飯よりバスケが好きなこと」——強豪であり続ける秘訣
毎年メンバーが入れ替わる高校バスケで、30年間にわたって全国トップクラスの実力を維持し続ける。これは、どんなプロチームでも成し遂げられない偉業です。
バスケットカウントのインタビューで、井手口監督は強豪であり続ける秘訣をこう語っています。
「必要なのは三度の飯よりバスケが好きなこと」
シンプルです。でもこの言葉の奥には、深い意味がある。バスケが好きだから、辛い走り込みも耐えられる。バスケが好きだから、試合に出られない時期も腐らない。バスケが好きだから、引退した後も「第一でバスケやってよかった」と思える。
井手口監督は選手を「道具」として見ていません。バスケを通じて人間を育てる。「試合に出られなくても、卒業する時に『福岡第一に来てよかった』と思える選手を育てたい」。この言葉は、レギュラー争いに敗れた控えの選手にとって、どれほどの救いになるか。
控えだった選手が社会人になって成功する。その姿を見て、次の世代が「自分も第一で頑張りたい」と思う。30年間の好循環は、こうして回り続けてきたのです。
2025年——インターハイ出場逃し、主力離脱、そして「地獄の夏」
2025年のシーズンは、井手口監督にとっても特に困難な1年でした。
まずインターハイの県予選で大濠に敗れ、出場権を逃す。さらに主力の留学生選手が離脱するという予想外の事態。チームの根幹が揺らぐ中で、井手口監督は「地獄の夏」を過ごします。
しかし、ここで井手口監督の真骨頂が発揮されました。台湾のカップ戦に招待されたことを機に、チームを立て直す。国際経験を積ませながら、選手一人ひとりの「積極性」を取り戻すプロセスを丁寧に踏みました。
九州ブロック大会を制してウインターカップ出場権を獲得。本大会でも激闘を繰り広げました。結果は大濠の連覇を許す形になりましたが、井手口監督は「もう毎日、何が起こるか分からない(笑)」と苦笑しつつも、「その都度ベストを尽くしていくしかない」と前を向いています。
この飄々とした姿勢が、井手口監督の強さです。30年間のキャリアで、何度も逆境に立たされてきた。でもそのたびに「走らんか!」の精神で立ち上がってきた。63歳の名将がいまだに現場に立ち続けられる理由は、この「折れない心」にあります。
片峯聡太との「哲学の対比」——二人の名将が照らす日本バスケの二つの道
ここで、前回の片峯聡太コーチとの対比を整理してみます。
片峯聡太(大濠): 38歳。母校のOB。「日本一カッコ良く素敵なチーム」。5人全員が状況判断するポジションレスバスケ。留学生なし。論理的で言語化力が高い。U18日本代表HC兼任。
井手口孝(福岡第一): 63歳。外部からの就任。「走らんか!」。ディフェンスからの速攻。留学生の力強さも組み合わせる。感覚的で人間味に溢れる。校長代理兼任。
全く違う哲学、全く違うアプローチ。でもどちらも「選手の人間的成長」を最優先にしている点は共通しています。片峯コーチが「思考力」で選手を育てるなら、井手口監督は「不遇を乗り越える力」で選手を育てる。
そしてこの二人が同じ福岡県にいることが、日本バスケ界にとってどれほどの財産か。片峯コーチの理想を追求するバスケと、井手口監督の激しさで勝負するバスケ。どちらかが正解ではない。二つの道があるからこそ、福岡から多様な選手が生まれるのです。
河村勇輝選手は井手口監督の「自主性の尊重」で育った。西田優大選手や井上宗一郎選手は大濠で「考えるバスケ」を学んだ。福岡というバスケの土壌が、日本代表を支える選手を生み出し続けている。
「コートに立ち続ける」——63歳の覚悟
井手口監督は、定年後もバスケ界への貢献を視野に入れています。
「コートに立ち続けること」。これが井手口監督の目標です。校長代理という重職を務めながらも、練習にはほぼ毎日参加し、試合ではベンチから声を張り上げる。63歳の体力で高校生と向き合い続けることの大変さは、想像を超えるものがあるでしょう。
でも井手口監督は止まらない。止まれない。バスケが好きだから。30年前に部員ゼロから始めた時と同じ情熱が、今もまだ燃えている。
著書『走らんか!福岡第一高校・男子バスケットボール部の流儀』に込められたメッセージは、選手だけでなく全ての人に向けられています。不遇の時代をどう過ごすか。夢を諦めない勇気。仲間を大切にする心。バスケという競技を通じて、人間としてどう生きるか。
「走らんか!」——30年分のエール
片峯聡太と井手口孝。福大大濠と福岡第一。
38歳の革新者と63歳の開拓者。ポジションレスバスケと走らんかバスケ。論理と情熱。
この二人が同じ土地で、同じ時代に、同じ目標——「日本一」——を追いかけている。その競争が、日本バスケの未来を豊かにしている。
井手口監督が部員ゼロから始めた30年前、こんな未来は誰にも見えなかったはずです。福岡の一高校から、NBAに選手を送り出す日が来るなんて。でも井手口監督は信じていた。走り続けた。だから、ここまで来た。
「走らんか!」
この言葉は、井手口監督の選手だけに向けられたものではないのかもしれません。夢を追いかける全ての人に向けた、30年分のエールです。
ばすけばか14より
福岡第一と福大大濠、二つの名門の挑戦を一緒に追いかけましょう!
この記事はバスケットカウント、バスケットボールキング、月刊バスケットボール、致知出版社、Yahoo!ニュース等の公開情報をもとに、筆者が独自の視点でまとめたものです。事実関係には細心の注意を払っていますが、誤りがあればご指摘ください。2026年5月時点の情報に基づいています。