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「何のために生きているのか」——プレーオフ3P歴代1位の男が、5年越しに明かした空白の3ヶ月

2026年04月26日 · 読了 20分
「何のために生きているのか」——プレーオフ3P歴代1位の男が、5年越しに明かした空白の3ヶ月

2026年4月26日執筆|読了 約20分


2026年4月24日(現地時間)、ヒューストン・トヨタセンター。

NBAプレーオフ1回戦Game3。ロサンゼルス・レイカーズの八村塁は、第1クォーター開始早々からコートを支配しました。レブロン・ジェームズのパスを受けて左コーナーから3ポイント。ゴール下でフェイダウェイ。トップからまた3ポイント。アリウープダンク。右コーナーから3本目の3ポイント。そしてフェイダウェイ。

12分間フル出場。FG6本中6本成功。3P3本中3本成功。チーム最多16得点。成功率100%。

この試合を含む2026年プレーオフ3試合の成績は、平均16.3得点、3P成功率52.9%。エースのルカ・ドンチッチとオースティン・リーブスを欠くチームで、28歳の日本人フォワードがレイカーズを背負って戦っています。

しかし、この記事で書きたいのはスタッツの話だけではありません。

2週間前の4月10日。テレビ朝日「報道ステーション」で放送された松岡修造氏との100分を超えるロングインタビュー。そして4月23日の第2弾。その中で八村塁は、NBA3年目の2021年に経験した「空白の3ヶ月」を初めて赤裸々に語りました。

「バスケ以外何もやっていなかったので、家に帰ってきても何をするかわかりませんでした。そういう時に自分で考え始めて。生きてる意味がないというか。何のために生きているのかって思い始めたんですね」

医師からの診断は、うつの状態などメンタルに関する症状。トップアスリートをも襲うメンタルヘルスの問題。日本人初のNBAドラフト1巡目指名選手も、例外ではなかったのです。

プレーオフで歴代1位の3P成功率を叩き出している男が、5年前には「生きている意味」を見失っていた。その事実の重さと、そこから這い上がった過程を、今日は全力で書きます。


富山の少年と「Black Samurai」の原点

八村塁は1998年2月8日、富山県で生まれました。ベナン人の父と日本人の母の間に生まれたハーフ。

日本で育つハーフの子どもが直面する困難は、想像以上のものがあります。見た目が違う。名前が違う。それだけで好奇の目にさらされる。八村少年がどのような子ども時代を過ごしたか、彼自身が多くを語ることは少ないですが、後にNBAの舞台で「Black Samurai」と名乗る覚悟の裏には、日本とベナンの二つのルーツを誇りとして昇華させた強い意志があったはずです。

バスケとの出会いは中学時代。富山市立奥田中学校でバスケ部に入ったのが始まりです。ここで面白い接点があります。前回の記事で書いた馬場雄大選手が奥田中学の3年生だった時、八村選手は1年生として入学してきました。馬場選手はこの長身の新入生をバスケ部に引き込んだ一人。もし馬場選手の働きかけがなければ、八村塁のNBAキャリアは存在しなかったかもしれません。

高校は宮城県の明成高校(現・仙台大学附属明成高校)へ進学。ここで八村選手は全国区のスターになります。ウインターカップ3連覇。高校時代から日本代表に選出され、U-17、U-19の世界大会で国際経験を積みました。203cmの身体能力と、日本人離れしたフィジカル。「この選手はアメリカに行くべきだ」——関係者の誰もがそう感じていた逸材でした。


ゴンザガ大学——言葉の壁を超えて全米を震撼させた3年間

2016年、高校卒業後にアメリカ・ゴンザガ大学へ進学。

この決断の重さを、少し想像してほしいのです。18歳。英語はほぼゼロからのスタート。文化も食事も気候も全く違う国で、世界最高峰のカレッジバスケに挑む。普通の人間なら、それだけで潰れかねない。

実際、初年度は適応に苦しみました。コーチの指示が聞き取れない。チームメイトとの日常会話もままならない。バスケの実力以前に、「生活する」こと自体が戦いだった。

しかし八村選手は、ここで壊れなかった。英語を猛勉強し、2年目からは出場時間を増やし、3年目(2018-19シーズン)には完全に覚醒します。NCAAトーナメントベスト8進出。ジュリアス・アービング賞(全米最優秀スモールフォワード)受賞。WCC(ウエスト・コースト・カンファレンス)のPlayer of the Weekにも複数回選出され、全米のNBAスカウトが注目する存在になりました。

ただし、この時期の「適応苦労」——文化の壁、言語の壁、孤独——が、後のメンタル不調の遠因になったと、八村選手自身が振り返っています。夢に向かって全速力で走り続ける中で、「自分自身と向き合う時間」が決定的に不足していた。それは、時限爆弾のように彼の内側に蓄積されていったのです。


NBAドラフト全体9位——「日本人初」の重圧

2019年6月20日、NBAドラフト。

ワシントン・ウィザーズが全体9位で八村塁を指名した瞬間、日本バスケの歴史が変わりました。日本人として初めてのNBAドラフト1巡目指名。テレビの前で泣いたファンも多かったと思います。私もその一人です。

ルーキーシーズン(2019-20)は48試合に出場し、平均13.5得点・6.1リバウンドを記録。NBA All-Rookie Second Teamに選出されました。日本人がNBAの新人賞候補に名を連ねる。数年前まで誰も想像しなかった光景が現実になった。

しかし、「日本人初」という称号は、想像を絶する重圧を伴うものでした。日本メディアからの取材攻勢、SNSでの賛否両論、常に「日本の代表」として見られるプレッシャー。アメリカのチームメイトは試合が終われば家族や友人と過ごす。八村選手には、その「日常」すらなかった。

異国の地で、たった一人。バスケのことだけを考え、バスケ以外の時間をどう過ごせばいいかわからない。そんな日々が、静かに積み重なっていきました。


空白の3ヶ月——「何のために生きているのか」

NBA3年目、2021-22シーズン。コロナ禍の真っ只中。

八村選手に、限界が来ました。

報道ステーションのインタビューで、初めて詳細が語られたその時期の記憶は、壮絶なものです。

「バスケ以外何もやっていなかったので、家に帰ってきても何をするかわかりませんでした」

「そういう時に自分で考え始めて。生きてる意味がないというか。何のために生きているのかって思い始めたんですね」

「ただ単に疲れていて、休憩が必要なんだと思っていました」

医師から受けた診断は、うつの状態など、メンタルに関する症状

約3ヶ月間、バスケを離れました。当時の公式発表は「個人的な理由」とだけ。チームメイトも、メディアも、ファンも、何が起きているのか知らなかった。八村塁は、たった一人で闇の中にいたのです。

この告白を聞いた時、私は二つのことを思いました。

一つは、「ここまで話してくれたことへの感謝」。トップアスリートがメンタルヘルスの問題を公に語ることは、今でもどの国でも勇気のいることです。八村選手がそれをしたのは、自分のためだけではない。同じ苦しみを抱えているかもしれない後輩たちのためでもあるはずです。

もう一つは、「あの3ヶ月がなければ、今のプレーオフの八村塁はいない」ということ。壊れかけた自分と向き合い、セラピストの助けを借り、「人間関係が大事だ」「一人でいるとロボット化していく」という気づきを得た。その経験が、今の安定したパフォーマンスの土台になっている。

松岡修造氏もインタビュー後にこうコメントしました。「ここまでさらけ出すのかって。本当にありがたいと思いました。メンタルヘルスの不調はアスリートに限ったことではない。誰にでも起こり得ること。八村選手が教えてくれたのは、まずは自分を理解する。そして、それは一人ではできないんだ、頼っていいんだって」。


レイカーズ移籍——レブロンの隣で見つけた「小さな楽しみ」

2023年1月、ウィザーズからロサンゼルス・レイカーズにトレード移籍。

この移籍が、八村選手のキャリアと人生を大きく変えました。

レブロン・ジェームズ、アンソニー・デイビスというNBA屈指のスーパースターと同じチーム。彼らのプロフェッショナリズムを間近で見て、八村選手は変わっていきます。3年5,100万ドル(約75億円)の契約を締結し、チームの主力として定着。

2024-25シーズンは平均13.1得点・5.0リバウンド(FG50.9%、3P41.3%)とキャリアハイ級の精度を記録。そして2025-26シーズン、契約最終年。68試合に出場し平均11.5得点、3P成功率44.3%はレイカーズ球団記録を更新。コービー・ブライアント、シャキール・オニール、マジック・ジョンソン——球団史に名を刻むレジェンドたちを上回る3P精度を、日本人選手が叩き出しているのです。

しかし数字以上に重要な変化は、「バスケ以外の生活」にありました。報道ステーションのインタビューで八村選手はこう語っています。愛犬との暮らし、家族との時間、小さな楽しみを見つけること。2021年に「家に帰っても何をすればいいかわからなかった」と苦しんだ男が、今は日常の中に幸せを見出している。

その変化が、コートでのパフォーマンスにも直結しているのでしょう。心が安定しているから、プレーが安定する。シンプルだけれど、最も大事な真理です。


プレーオフ3P歴代1位——「大舞台が好き」の証明

2026年4月、NBAプレーオフが開幕。レイカーズはウエスタンカンファレンス4位(53勝29敗)でロケッツとの1回戦に臨みました。

ここからの八村選手の活躍は、もはや「プレーオフ男」と呼ぶしかありません。

Game1:先発出場で攻守に貢献し、チームの白星発進を支える。
Game2:アリウープダンク、3本の3P、合計13得点。レイカーズ連勝。
Game3(4月24日):第1クォーターでFG6/6、3P3/3、チーム最多16得点。成功率100%の完璧なパフォーマンス。

3試合を終えた時点でのプレーオフ通算3P成功率は、116本中57本成功の49.1%。100本以上の試投数がある選手の中でNBA歴代1位です。

この記録の凄みを、少しだけ掘り下げます。プレーオフは通常、レギュラーシーズンよりディフェンスの強度が格段に上がります。スカウティングが徹底され、シュートチェックがきつくなり、多くの選手がレギュラーシーズンより成績を落とす。にもかかわらず、八村選手は過去5回のプレーオフのうち4回でレギュラーシーズンを上回る成績を残しています。

八村選手自身が語った言葉が印象的です。「大舞台が好き」。この言葉に嘘はありません。数字が完全に裏付けています。プレッシャーのかかる場面で、むしろパフォーマンスが上がる。これは才能ではなく、あの「空白の3ヶ月」を乗り越えた人間にしか手に入らない、メンタルの強さです。


「日本代表のカルチャーを変えなきゃいけない」

報道ステーションのインタビューでもう一つ、大きな反響を呼んだのが日本代表への言及です。

パリ五輪以降、約2年間代表活動から距離を置いていた八村選手。ホーバス前HC時代の方針との溝も報道されていました。松岡修造氏から「代表に参加する可能性は?」と問われた八村選手の答えは、即座のものでした。

「もちろんです。ずっと考えてます。時期が合い、出られるなら絶対に出ます」

その上で、率直な本音も語りました。「日本代表のカルチャーを変えなきゃいけないとずっと言い続けてきた。勝つためにやっていないと感じていたので、その方針が変わらない限りはやりたくないと思っていただけ」。

そして島田慎二氏がJBA会長に就任したことで、変化を感じていると明かしました。「島田さんが新たに会長になって、僕もお会いして何時間か話しました。変わってきています」。

さらに、日本バスケ界全体への提言も。「フィジカルで負けているのに、メンタルでも負けていたら勝てるわけがない」。この言葉には、NBAの最前線で7年間戦い続けた人間だけが持つ説得力があります。

八村選手は単に「代表に戻りたい」と言っているのではありません。「勝てる代表チーム」を作るために自分が何を貢献できるかを考えている。その視座の高さが、この選手のスケールの大きさを物語っています。


BLACK SAMURAI——次世代への架け橋

八村選手は2025年から「BLACK SAMURAI SUMMIT」というプロジェクトを主催しています。2026年8月には2年連続での開催が決定。中高生を対象としたバスケキャンプで、数千人規模の応募が集まる人気イベントです。

このキャンプの特徴は、技術指導だけでなく「メンタル」に大きなウェイトを置いていること。NBAで経験した世界基準のフィジカルトレーニングとともに、「プレッシャーを興奮に変える」マインドセットを次世代に伝えようとしています。

2021年に自分自身がメンタルで苦しんだからこそ、若い選手たちに「頼っていい」「一人で抱え込まなくていい」というメッセージを届けたい。八村選手のこのプロジェクトは、選手としてのキャリアと並行して進む「もう一つの使命」です。

報道ステーションのインタビューでは、「いつか富山でプレーしたい」「日本でやりたい」とも語りました。引退後のビジョンとして「日本のバスケのために貢献したい」と明言。28歳にして、すでに先駆者としての責任を自覚し、行動に移している。


契約最終年——28歳の分水嶺

2025-26シーズンは、八村選手にとってレイカーズとの3年契約の最終年です。年俸は約1,825万ドル(約27億円)。

レイカーズは八村選手を含む主力との再契約に前向きとの報道もありますが、NBAのビジネスは不確実性の塊です。プレーオフでの活躍が、次の契約条件に直結する。Game3の第1クォーターでFG100%、チーム最多16得点を叩き出した八村選手は、まさに「自分の未来を自分で切り拓いている」最中なのです。

ドンチッチとリーブスを欠く中で、レイカーズの攻撃を支えている八村選手。レディックHCは「数字がすべてを物語っている」と八村選手の貢献を評価しています。一方で、シーズン中には「役割を果たしていなかった」と指摘されベンチに下げられた試合もありました。そのたびに練習で結果を出し、信頼を取り戻してきた。

この「挫折と復活の繰り返し」こそが、八村塁というアスリートの本質です。ウィザーズ時代のメンタル不調から復活したように、レイカーズでも浮き沈みを経験しながら、常に這い上がってくる。


馬場雄大との「奥田中学の縁」——日本バスケが繋いだ物語

最後に、一つだけ個人的な話をさせてください。

先日、このブログで馬場雄大選手の記事を書きました。その中で触れた「奥田中学での出会い」のエピソード。馬場選手が3年生の時、1年生として入学してきた八村少年をバスケ部に引き込んだ話です。

あの時、もし馬場選手が声をかけていなかったら。もし八村少年が別のスポーツを選んでいたら。

今、NBAプレーオフで歴代1位の3P成功率を叩き出しているこの男は、存在しなかったかもしれない。日本バスケの歴史を変えた1巡目指名は、実現しなかったかもしれない。

馬場選手が長崎ヴェルカでBリーグを牽引し、八村選手がレイカーズでNBAの歴史に名を刻む。同じ中学の先輩後輩が、それぞれのフィールドで日本バスケの可能性を切り拓いている。この縁の美しさに、バスケファンとして胸が熱くならないわけがありません。


八村塁が教えてくれたこと

ここまで書いてきて、私の中にある答えはシンプルです。

八村塁の最大の強さは、「脆さを隠さなかったこと」です。

NBA選手として、日本人初の1巡目指名という看板を背負いながら、「生きている意味がわからなかった」と告白できる強さ。うつの診断を受けたことを、5年越しに公にできる勇気。そしてその経験を、次世代への教訓として昇華させる知性。

プレーオフ3P成功率歴代1位という記録は、もちろん凄まじい。しかしそれ以上に凄いのは、あの「空白の3ヶ月」を経た人間が、NBAの最大の舞台で最も安定した成績を残せるようになったという事実です。

壊れかけた自分と向き合い、助けを求め、日常の小さな幸せを見つけ直し、コートに戻ってきた。その全てのプロセスが、今の3P成功率49.1%に凝縮されている。

八村塁は言いました。「自分ならできると信じ続けてここまで来た。周りを気にせず、自分の強みと”我”をぶつけてほしい」。

この言葉を、今どこかで「何のために生きているのか」と考えている人に届けたい。NBAのスーパースターでさえ、そう思った夜があった。でもそこから這い上がれた。助けを求めていい。一人で抱え込まなくていい。

プレーオフはまだ続いています。レイカーズが勝ち上がれるかどうかはわかりません。契約最終年の先に何が待っているかもわかりません。でも一つだけ確信していることがあります。

八村塁は、これからも「Black Samurai」として、コートの上でも外でも、戦い続ける。脆さを強さに変えたその背中で、日本バスケの道を照らし続ける。

その姿を、一緒に見届けましょう。


ばすけばか14より
八村塁選手の挑戦を、心から応援しています。
プレーオフの続きも、代表復帰の日も、一緒に見届けましょう!


この記事はNBA公式、ESPNBasketball Reference、報道ステーション独占インタビュー(2026410日・23日放送)、バスケットボールキング、サンスポ、Yahoo!ニュース等の公開情報をもとに、筆者が独自の視点でまとめたものです。事実関係には細心の注意を払っていますが、誤りがあればご指摘ください。2026426日時点の情報に基づいています。