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208cmの”大きな鷹”——ジョシュ・ホーキンソンという生き方に、私はどうしようもなく胸が熱くなっている。

2026年03月02日 · 読了 41分
208cmの”大きな鷹”——ジョシュ・ホーキンソンという生き方に、私はどうしようもなく胸が熱くなっている。

2026年3月1日更新|


2026年3月1日、沖縄サントリーアリーナ。

FIBAワールドカップ2027アジア地区予選Window2、日本vs韓国。桶谷大HCの新体制で初勝利をつかみ取りたい日本代表が、78-72で韓国を振り切った直後のことでした。

コートの中央に立った背番号24が、マイクを握って言いました。

「歌います」

沖縄の空気が一変しました。BEGINの「オジー自慢のオリオンビール」の替え歌が響き渡り、会場のファンが声を合わせて「あっり乾杯!」とコール&レスポンスで応える。208cmの巨体が、少年のような笑顔でリズムを刻んでいる。

ジョシュ・ホーキンソン。30歳。アメリカ・ワシントン州シアトル出身。日本名「鷹大(たかひろ)」。

この日、24得点7リバウンド2アシスト1スティール1ブロック。35分以上コートに立ち続け、ペイントエリアを支配し続けたビッグマンは、試合が終わった瞬間に「エンターテイナー」に変身しました。

この人を語るのに、数字だけでは足りません。経歴だけでも足りません。

なぜなら、ジョシュ・ホーキンソンという選手は——バスケットボールの技術と、文化を超えた人間的な魅力と、どうしようもない「日本への愛」が全部ひとつになった、唯一無二の存在だからです。

断言します。この男の物語を知れば、あなたのバスケの見方が変わります。

その全部を、書きます。


「ボール」が最初の言葉だった少年——シアトルのバスケ一家に生まれて

1995年6月23日、ワシントン州シアトル。ジョシュア・ハーコン・ホーキンソンはこの街で生まれました。

父ネルズはカナダのトリニティ・ウェスタン大学でプレーした後、ノルウェーでプロ選手としてキャリアを積んだバスケットマン。母ナンシーはワシントン大学でプレーし、デンマークでもプロとして活躍した女子選手。妹のカーリンを含む家族はショアライン地区に暮らし、家にはいつもバスケットボールが転がっていました。

彼が最初に口にした言葉は「ボール」だったと、本人がインタビューで明かしています。それほどまでに、ボールは彼の人生そのものでした。

ただし、ホーキンソンの少年時代には意外な一面があります。実は彼、バスケよりも先に野球の才能が開花した「二刀流」の少年だったのです。地元シアトル・マリナーズの大ファンで、幼少期からイチローに憧れていた。高校時代には投手として150km/h近い速球を投げ、野球のプロスペクト(有望株)としても名前が挙がっていたといいます。ちなみに、ショアウッド高校の先輩にはMLBのサイ・ヤング賞投手ブレイク・スネルがいます。

野球とバスケの二刀流。アメリカの高校生としては珍しくない選択ですが、最終的に彼はバスケットボールを選びました。高校3〜4年生の2シーズンでチームを32勝14敗に導き、平均20得点10リバウンド5ブロック。ただ、この時点ではPower 5カンファレンスの強豪校からの注目はほぼゼロ。唯一声をかけてくれたのが、ワシントン州立大学(WSU)でした。


1年生で平均1.2得点。そこからの「全米最大の覚醒」

ここからが、ホーキンソンの物語の真骨頂です。

WSUでの1年目、彼は先輩たちのバックアップにすぎませんでした。出場時間わずか平均6分。スタッツは平均1.2得点、1.6リバウンド。大学バスケの世界において、この数字は「いてもいなくても変わらない」と言われても仕方のない水準です。

ところが、1年目のシーズン後にヘッドコーチがケン・ボーンからアーニー・ケントに交代。これが運命の分岐点でした。

2年目のホーキンソンは文字通り「別人」になりました。出場時間は6分から33分に急増。得点は1.2から14.7へ、リバウンドは1.6から10.8へ跳ね上がり、全米で最も成長したスコアラー第2位、最も成長したリバウンダー第1位に。シーズン334リバウンドと20回のダブルダブルはいずれもWSU史上最多記録を更新しました。Pac-12カンファレンスの「最優秀成長選手賞」を受賞し、オナラブルメンションにも選出されています。

3年目にはチームキャプテンに就任し、カンファレンスのリバウンド王とダブルダブル王を連覇。4年目には宿敵ワシントン大学を2010-11シーズン以来のスウィープに追い込み、平均15.5得点10.2リバウンドでオールPac-12セカンドチームに選出。カリーム・アブドゥル=ジャバー・アウォード(年間最優秀センター賞)のファイナリストにも2年連続で名を連ねました。

通算成績はWSU史上最多のリバウンド1,015本(最終的にこの数字に更新)、最多ダブルダブル56回。1,414得点と合わせて、WSU史上初の「1,000得点&1,000リバウンド」達成者となり、Pac-12の歴史でも13人目の偉業を成し遂げています。

そしてここが、私が最もホーキンソンに惹かれるポイントです。

彼はこの猛烈な活躍をしながら、学士号を3年で取得しています。経営学の学位を2016年夏に取得。そして4年目のシーズン中にMBA(データアナリティクス専攻)を修了し、学士と修士を合わせて4年間で取得完了。2017年にはPac-12の「スカラー・アスリート・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。WSUの選手として初めてシニアCLASS Award全米1stチームにも選出されています。

バスケだけの人間ではない。知性と身体能力を両立させた稀有な存在。これが後の彼のキャリアにおける「選択」の質を、大きく左右することになります。


NBAの夢、そして日本へ——「最初はアメリカ人のまま暮らしていた」

大学4年間で全米有数の選手に成長したホーキンソンでしたが、NBAドラフトでは指名されませんでした。4〜5チームのワークアウトに参加したものの、届かなかった。本人がインタビューで率直に認めています。

2017年6月、彼が選んだのは日本でした。当時B2(2部リーグ)だったファイティングイーグルス名古屋(現・FE名古屋)と契約。

なぜ日本だったのか。正直に言えば、最初は「NBAへのステップアップ」を視野に入れた選択だったのかもしれません。アメリカ以外でプレーしながら、チャンスを待つ。海外でプロキャリアを始める若いアメリカ人選手にとって、それは自然な考え方です。

実際、来日直後のホーキンソンは苦しんでいます。ホームシックに陥り、一人暮らしの異国で戸惑う日々。最初の1年は両親が何度も日本に来て、息子の新生活を支えたそうです。

転機は、本人の意識の変化でした。

彼はあるインタビューでこう振り返っています——「最初はアメリカ人のまま日本で暮らしていた。でもそれは間違ったやり方だった」。

この言葉は深い。海外に住んだ経験がある人なら、誰もが突き刺さるはずです。自国の価値観を手放さずに異文化の中で暮らすことと、その文化に心を開いて飛び込むことは、まったく違う体験です。ホーキンソンは後者を選びました。

日本語の勉強に本腰を入れ、日本文化に積極的に溶け込んでいく。温泉にハマり、箸を使いこなし、祭りに参加し、カラオケでは中島みゆきの「糸」やOfficial髭男dismを歌う。来日6年で帰化に必要な日本語審査をほぼ最短期間で突破するまでに成長しました。

B2の名古屋で力をつけた後、2020年にB1の信州ブレイブウォリアーズへ移籍。ここで完全に覚醒します。B1で平均18点台・9リバウンド台を叩き出し、2023年5月には新潟アルビレックスBB戦でキャリアハイの37得点を記録。2020年12月には京都戦で1試合23リバウンドという驚異的な数字も残しています。

B2からB1へ。「ステップアップの踏み台」だったはずの日本が、いつしか彼にとっての「ホーム」になっていました。


官報に載った名前——帰化、そして「鷹大」の誕生

2023年2月。日本の官報に、ひとつの名前が掲載されました。

「ジョシュア・ハーコン・ホーキンソン」

帰化が認められた瞬間です。本人の著書によれば、その知らせを聞いた瞬間、彼は「ほっとした」と語っています。

帰化の理由を、彼は何度も語っています。「僕をここまで成長させてくれた人たちに恩返しをしたかった」「ここまで成長できた自分を、彼らにも誇らしく思ってほしい」。そして、「日本を背負うということを誇りに思う」。

両親の反応もポジティブだったそうです。帰化前に長野を訪れた両親に、息子がどんな環境で暮らし、どれほど周囲の人々に愛されているかを見てもらえたことが、彼にとっては何より大きかった。

ここでひとつ、この男の人柄が滲み出るエピソードがあります。

実は、帰化申請の際に日本名を登録しなかったのです。パスポートにもそのままの名前が記載されている。すると、チームメイトたちに「日本名を選べばよかったのに」とツッコまれた(笑)。そこで、非公式ながら自分で考えた日本名が「鷹大(たかひろ)」。

「タカ」は鷹(Hawk)、「ヒロ」は大(Big)。つまり「Big Hawk(大きな鷹)」。アメリカ時代のニックネームと名字のHawkinsonを掛け合わせた、家族への思いも込めた名前。

以来、チームメイトにもファンにも「タカちゃん」と呼ばれるようになり、もう誰も「ジョシュ」とは呼ばなくなったそうです。


ワールドカップ2023——沖縄の夜、60年越しの夢が叶った

帰化からわずか2週間後、ホーキンソンはFIBAワールドカップ2023アジア地区予選に招集され、イラン戦とバーレーン戦の連勝に貢献しました。トム・ホーバスHCは彼を「日本のヨキッチ」と称賛。パスセンスに優れ、ゴール下のフィニッシュもスリーポイントもこなせるオールラウンドなビッグマンへの最大級の賛辞です。

そして迎えた2023年8月、FIBAワールドカップ本大会。

この大会でのホーキンソンの数字は圧巻でした。大会平均で21得点・11リバウンド以上。日本はアジア最上位でフィニッシュし、48年ぶり——実質的には約60年ぶりの自力でのオリンピック出場権を獲得しました。

沖縄アリーナで予選突破が決まったあの夜。日本バスケの歴史が変わった瞬間に、208cmの帰化選手は間違いなくその中心にいました。


パリ五輪——ウェンバンヤマと対峙した男

2024年パリオリンピック。日本男子バスケットボール代表がオリンピックの舞台に立つこと自体が、ほんの数年前まで夢物語でした。

ホーキンソンは先発センターとして全試合に出場。大会を通じて平均18.3得点、9.7リバウンドというほぼダブルダブルの成績を残しました。

なかでも語り草となったのが、フランス戦でのビクトール・ウェンバンヤマとのマッチアップです。NBA最高の逸材とも言われる224cmの怪物を相手に、ホーキンソンは16得点8リバウンドを記録。94-90の惜敗でしたが、SNS上では世界中のバスケファンから賞賛の声が上がりました。

彼の存在がグローバルに注目されたのもこの大会です。海外メディアは「なぜ白人のアメリカ人が日本代表にいるのか」という切り口で取り上げました。SNS上では映画「ラスト・サムライ」のトム・クルーズや、ドラマ「SHOGUN 将軍」のジョン・ブラックソーンに例えるジョークも飛び交いました。

しかし、試合でのパフォーマンスがすべてを物語っていた。日本のファンはとっくに彼を受け入れていたし、チームメイトとの絆は誰の目にも明らかでした。注目すべきは、2025年のFIBAアジアカップでは馬場雄大選手とともにダブルキャプテンに任命されていること。帰化選手がキャプテンを務めるということの意味を、想像してみてください。


中国戦ベンチ外——「コートに立てないことが、こんなに緊張するとは」

2026年2月26日。桶谷大HCの新体制初戦となった中国戦。

ホーキンソンの名前はベンチ入り12名のリストにありませんでした。

帰化枠にはアレックス・カーク(琉球ゴールデンキングス)が起用されました。桶谷HCは理由を「コンディションを見た結果」と説明しています。ホーバス前HC時代から、ホーキンソンは30分台後半から40分近くのプレータイムを常に任され、まさに「替えの利かない存在」として酷使されてきた背景があります。

日本代表の試合をベンチの後ろから見守ったホーキンソンは、この経験をこう振り返りました。

「不思議な気持ちでした。コートに立っている時はまったく緊張しません。でもベンチから見ているだけでは、試合の行方をコントロールできない。自分にできるのは一生懸命に応援し、感じたことをベンチにいる選手に伝えることくらいで、本当に緊張しながら試合を見ていました」

この言葉に、私は胸を打たれました。

世界大会でダブルダブルを量産するビッグマンが、ベンチ裏で「緊張していた」と言う。それは、彼がどれほど日本代表というチームのことを自分ごととして捉えているかの証拠です。自分が出たいとか、選ばれなかったことへの不満ではない。チームが勝てるかどうかだけを案じて、ただ祈るように見守っていた。

そして韓国戦、ホーキンソンは先発に復帰。試合前のインタビューでは「韓国のファイブアウトの3ポイントを警戒しつつ、ペイントエリアで支配したい」と冷静に分析を語った後、結果で応えました。24得点7リバウンド。桶谷ジャパンの記念すべき初白星を、このビッグマンが力づくでもたらしました。


歌うビッグマン——コートの外にある「もうひとつの才能」

ホーキンソンの魅力がプレーだけにとどまらないことは、もうお分かりでしょう。

韓国戦後の「オリオンビール替え歌」は今回が初めてではありません。Bリーグのインタビューでも歌を披露し、ファンを沸かせてきた「歌うビッグマン」。十八番は中島みゆきの「糸」。J-POPを愛し、Official髭男dismやGReeeeNも好むという、日本文化への溶け込みっぷりは本物です。

父ネルズはバスケ選手としてだけでなく、「Basketball Travelers Inc」というスポーツ観光代理店を経営する実業家でもあります。ホーキンソン自身もMBA持ちの知性派。コート上では肉弾戦を繰り広げながら、コート外ではデータアナリティクスを理解するインテリ。そのギャップがまた、この選手の深みを増しています。

2023年6月には、幼少期からの憧れだったイチロー本人との対面が実現。ユニフォームを交換したそのエピソードは、シアトル育ちの少年がマリナーズを観て抱いた日本への興味が、帰化という形で結実したことの象徴のように思えます。


「日本のバスケをもっと大きくしたい」——タカちゃんが見据える未来

2025-26シーズンのB1で、ホーキンソンはサンロッカーズ渋谷の主力として平均16.3得点・8.0リバウンド・2.3アシストを記録しています。FE名古屋、信州ブレイブウォリアーズ、そしてSR渋谷。3つのクラブを渡り歩いてもなお、どのチームのファンからも愛され続けているのは、彼が地域に積極的に飛び出し、ファンと分け隔てなく交わる人間性があるからでしょう。

2025年8月のFIBAアジアカップでは、シリア戦で26得点13リバウンドのダブルダブルを記録してTCLプレーヤー・オブ・ザ・ゲームに選出。イラン戦では20得点17リバウンドという驚異的な数字も叩き出しています。WC2027予選Window1のチャイニーズ・タイペイ戦では14得点12リバウンド8アシストのオールラウンドな活躍を見せ、30歳を迎えてなお進化を続けています。

彼がインタビューで繰り返し口にしているのは、「日本バスケの成長に貢献したい」という言葉です。タクシーから降りた瞬間に15人のファンが待っていたという、本人も驚くほどの人気者になった今でも、彼の視線は自分自身の栄光ではなく、日本バスケットボールの未来に向いている。

ワールドカップ2027の最終予選に向けて、日本はグループBで3勝1敗の首位をキープ。ホーキンソンがこのチームの中心にいる限り、日本バスケの「次の章」は力強く書き進められていくはずです。


おわりに——なぜ私は、この男に心を掴まれるのか

ジョシュ・ホーキンソンの物語は、バスケの物語であると同時に、「どこに属するか」という問いの物語でもあります。

シアトルで生まれ、NBAの夢を追い、届かず、日本にたどり着いた。最初はアメリカ人のまま暮らし、やがて日本文化に心を開き、ついにはこの国の国民になることを選んだ。

帰化は制度の話ではない。覚悟の話です。

自分を育ててくれた人々への恩返し。自分を受け入れてくれた文化への敬意。そして、日本バスケの未来を自分ごととして背負う覚悟。

208cmの体に、MBAの頭脳を持ち、150km/hの速球を投げた腕で今はリバウンドを奪い、中島みゆきを歌い、温泉を愛し、沖縄のファンと「あっり乾杯!」と叫ぶ。

この男の魅力を、ひとことで表す言葉があるとすれば、それは「本物」です。

日本バスケを好きでよかった。この時代にこの選手を目撃できていることが、どれほど幸せなことか。2027年のワールドカップまで、そしてその先へ——タカちゃんの物語を、一緒に追いかけましょう。


参考情報・主要ソース

本記事の執筆にあたり、以下の公開情報を参照しました。

2026年3月1日更新|


2026年3月1日、沖縄サントリーアリーナ。

FIBAワールドカップ2027アジア地区予選Window2、日本vs韓国。桶谷大HCの新体制で初勝利をつかみ取りたい日本代表が、78-72で韓国を振り切った直後のことでした。

コートの中央に立った背番号24が、マイクを握って言いました。

「歌います」

沖縄の空気が一変しました。BEGINの「オジー自慢のオリオンビール」の替え歌が響き渡り、会場のファンが声を合わせて「あっり乾杯!」とコール&レスポンスで応える。208cmの巨体が、少年のような笑顔でリズムを刻んでいる。

ジョシュ・ホーキンソン。30歳。アメリカ・ワシントン州シアトル出身。日本名「鷹大(たかひろ)」。

この日、24得点7リバウンド2アシスト1スティール1ブロック。35分以上コートに立ち続け、ペイントエリアを支配し続けたビッグマンは、試合が終わった瞬間に「エンターテイナー」に変身しました。

この人を語るのに、数字だけでは足りません。経歴だけでも足りません。

なぜなら、ジョシュ・ホーキンソンという選手は——バスケットボールの技術と、文化を超えた人間的な魅力と、どうしようもない「日本への愛」が全部ひとつになった、唯一無二の存在だからです。

断言します。この男の物語を知れば、あなたのバスケの見方が変わります。

その全部を、書きます。


「ボール」が最初の言葉だった少年——シアトルのバスケ一家に生まれて

1995年6月23日、ワシントン州シアトル。ジョシュア・ハーコン・ホーキンソンはこの街で生まれました。

父ネルズはカナダのトリニティ・ウェスタン大学でプレーした後、ノルウェーでプロ選手としてキャリアを積んだバスケットマン。母ナンシーはワシントン大学でプレーし、デンマークでもプロとして活躍した女子選手。妹のカーリンを含む家族はショアライン地区に暮らし、家にはいつもバスケットボールが転がっていました。

彼が最初に口にした言葉は「ボール」だったと、本人がインタビューで明かしています。それほどまでに、ボールは彼の人生そのものでした。

ただし、ホーキンソンの少年時代には意外な一面があります。実は彼、バスケよりも先に野球の才能が開花した「二刀流」の少年だったのです。地元シアトル・マリナーズの大ファンで、幼少期からイチローに憧れていた。高校時代には投手として150km/h近い速球を投げ、野球のプロスペクト(有望株)としても名前が挙がっていたといいます。ちなみに、ショアウッド高校の先輩にはMLBのサイ・ヤング賞投手ブレイク・スネルがいます。

野球とバスケの二刀流。アメリカの高校生としては珍しくない選択ですが、最終的に彼はバスケットボールを選びました。高校3〜4年生の2シーズンでチームを32勝14敗に導き、平均20得点10リバウンド5ブロック。ただ、この時点ではPower 5カンファレンスの強豪校からの注目はほぼゼロ。唯一声をかけてくれたのが、ワシントン州立大学(WSU)でした。


1年生で平均1.2得点。そこからの「全米最大の覚醒」

ここからが、ホーキンソンの物語の真骨頂です。

WSUでの1年目、彼は先輩たちのバックアップにすぎませんでした。出場時間わずか平均6分。スタッツは平均1.2得点、1.6リバウンド。大学バスケの世界において、この数字は「いてもいなくても変わらない」と言われても仕方のない水準です。

ところが、1年目のシーズン後にヘッドコーチがケン・ボーンからアーニー・ケントに交代。これが運命の分岐点でした。

2年目のホーキンソンは文字通り「別人」になりました。出場時間は6分から33分に急増。得点は1.2から14.7へ、リバウンドは1.6から10.8へ跳ね上がり、全米で最も成長したスコアラー第2位、最も成長したリバウンダー第1位に。シーズン334リバウンドと20回のダブルダブルはいずれもWSU史上最多記録を更新しました。Pac-12カンファレンスの「最優秀成長選手賞」を受賞し、オナラブルメンションにも選出されています。

3年目にはチームキャプテンに就任し、カンファレンスのリバウンド王とダブルダブル王を連覇。4年目には宿敵ワシントン大学を2010-11シーズン以来のスウィープに追い込み、平均15.5得点10.2リバウンドでオールPac-12セカンドチームに選出。カリーム・アブドゥル=ジャバー・アウォード(年間最優秀センター賞)のファイナリストにも2年連続で名を連ねました。

通算成績はWSU史上最多のリバウンド1,015本(最終的にこの数字に更新)、最多ダブルダブル56回。1,414得点と合わせて、WSU史上初の「1,000得点&1,000リバウンド」達成者となり、Pac-12の歴史でも13人目の偉業を成し遂げています。

そしてここが、私が最もホーキンソンに惹かれるポイントです。

彼はこの猛烈な活躍をしながら、学士号を3年で取得しています。経営学の学位を2016年夏に取得。そして4年目のシーズン中にMBA(データアナリティクス専攻)を修了し、学士と修士を合わせて4年間で取得完了。2017年にはPac-12の「スカラー・アスリート・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。WSUの選手として初めてシニアCLASS Award全米1stチームにも選出されています。

バスケだけの人間ではない。知性と身体能力を両立させた稀有な存在。これが後の彼のキャリアにおける「選択」の質を、大きく左右することになります。


NBAの夢、そして日本へ——「最初はアメリカ人のまま暮らしていた」

大学4年間で全米有数の選手に成長したホーキンソンでしたが、NBAドラフトでは指名されませんでした。4〜5チームのワークアウトに参加したものの、届かなかった。本人がインタビューで率直に認めています。

2017年6月、彼が選んだのは日本でした。当時B2(2部リーグ)だったファイティングイーグルス名古屋(現・FE名古屋)と契約。

なぜ日本だったのか。正直に言えば、最初は「NBAへのステップアップ」を視野に入れた選択だったのかもしれません。アメリカ以外でプレーしながら、チャンスを待つ。海外でプロキャリアを始める若いアメリカ人選手にとって、それは自然な考え方です。

実際、来日直後のホーキンソンは苦しんでいます。ホームシックに陥り、一人暮らしの異国で戸惑う日々。最初の1年は両親が何度も日本に来て、息子の新生活を支えたそうです。

転機は、本人の意識の変化でした。

彼はあるインタビューでこう振り返っています——「最初はアメリカ人のまま日本で暮らしていた。でもそれは間違ったやり方だった」。

この言葉は深い。海外に住んだ経験がある人なら、誰もが突き刺さるはずです。自国の価値観を手放さずに異文化の中で暮らすことと、その文化に心を開いて飛び込むことは、まったく違う体験です。ホーキンソンは後者を選びました。

日本語の勉強に本腰を入れ、日本文化に積極的に溶け込んでいく。温泉にハマり、箸を使いこなし、祭りに参加し、カラオケでは中島みゆきの「糸」やOfficial髭男dismを歌う。来日6年で帰化に必要な日本語審査をほぼ最短期間で突破するまでに成長しました。

B2の名古屋で力をつけた後、2020年にB1の信州ブレイブウォリアーズへ移籍。ここで完全に覚醒します。B1で平均18点台・9リバウンド台を叩き出し、2023年5月には新潟アルビレックスBB戦でキャリアハイの37得点を記録。2020年12月には京都戦で1試合23リバウンドという驚異的な数字も残しています。

B2からB1へ。「ステップアップの踏み台」だったはずの日本が、いつしか彼にとっての「ホーム」になっていました。


官報に載った名前——帰化、そして「鷹大」の誕生

2023年2月。日本の官報に、ひとつの名前が掲載されました。

「ジョシュア・ハーコン・ホーキンソン」

帰化が認められた瞬間です。本人の著書によれば、その知らせを聞いた瞬間、彼は「ほっとした」と語っています。

帰化の理由を、彼は何度も語っています。「僕をここまで成長させてくれた人たちに恩返しをしたかった」「ここまで成長できた自分を、彼らにも誇らしく思ってほしい」。そして、「日本を背負うということを誇りに思う」。

両親の反応もポジティブだったそうです。帰化前に長野を訪れた両親に、息子がどんな環境で暮らし、どれほど周囲の人々に愛されているかを見てもらえたことが、彼にとっては何より大きかった。

ここでひとつ、この男の人柄が滲み出るエピソードがあります。

実は、帰化申請の際に日本名を登録しなかったのです。パスポートにもそのままの名前が記載されている。すると、チームメイトたちに「日本名を選べばよかったのに」とツッコまれた(笑)。そこで、非公式ながら自分で考えた日本名が「鷹大(たかひろ)」。

「タカ」は鷹(Hawk)、「ヒロ」は大(Big)。つまり「Big Hawk(大きな鷹)」。アメリカ時代のニックネームと名字のHawkinsonを掛け合わせた、家族への思いも込めた名前。

以来、チームメイトにもファンにも「タカちゃん」と呼ばれるようになり、もう誰も「ジョシュ」とは呼ばなくなったそうです。


ワールドカップ2023——沖縄の夜、60年越しの夢が叶った

帰化からわずか2週間後、ホーキンソンはFIBAワールドカップ2023アジア地区予選に招集され、イラン戦とバーレーン戦の連勝に貢献しました。トム・ホーバスHCは彼を「日本のヨキッチ」と称賛。パスセンスに優れ、ゴール下のフィニッシュもスリーポイントもこなせるオールラウンドなビッグマンへの最大級の賛辞です。

そして迎えた2023年8月、FIBAワールドカップ本大会。

この大会でのホーキンソンの数字は圧巻でした。大会平均で21得点・11リバウンド以上。日本はアジア最上位でフィニッシュし、48年ぶり——実質的には約60年ぶりの自力でのオリンピック出場権を獲得しました。

沖縄アリーナで予選突破が決まったあの夜。日本バスケの歴史が変わった瞬間に、208cmの帰化選手は間違いなくその中心にいました。


パリ五輪——ウェンバンヤマと対峙した男

2024年パリオリンピック。日本男子バスケットボール代表がオリンピックの舞台に立つこと自体が、ほんの数年前まで夢物語でした。

ホーキンソンは先発センターとして全試合に出場。大会を通じて平均18.3得点、9.7リバウンドというほぼダブルダブルの成績を残しました。

なかでも語り草となったのが、フランス戦でのビクトール・ウェンバンヤマとのマッチアップです。NBA最高の逸材とも言われる224cmの怪物を相手に、ホーキンソンは16得点8リバウンドを記録。94-90の惜敗でしたが、SNS上では世界中のバスケファンから賞賛の声が上がりました。

彼の存在がグローバルに注目されたのもこの大会です。海外メディアは「なぜ白人のアメリカ人が日本代表にいるのか」という切り口で取り上げました。SNS上では映画「ラスト・サムライ」のトム・クルーズや、ドラマ「SHOGUN 将軍」のジョン・ブラックソーンに例えるジョークも飛び交いました。

しかし、試合でのパフォーマンスがすべてを物語っていた。日本のファンはとっくに彼を受け入れていたし、チームメイトとの絆は誰の目にも明らかでした。注目すべきは、2025年のFIBAアジアカップでは馬場雄大選手とともにダブルキャプテンに任命されていること。帰化選手がキャプテンを務めるということの意味を、想像してみてください。


中国戦ベンチ外——「コートに立てないことが、こんなに緊張するとは」

2026年2月26日。桶谷大HCの新体制初戦となった中国戦。

ホーキンソンの名前はベンチ入り12名のリストにありませんでした。

帰化枠にはアレックス・カーク(琉球ゴールデンキングス)が起用されました。桶谷HCは理由を「コンディションを見た結果」と説明しています。ホーバス前HC時代から、ホーキンソンは30分台後半から40分近くのプレータイムを常に任され、まさに「替えの利かない存在」として酷使されてきた背景があります。

日本代表の試合をベンチの後ろから見守ったホーキンソンは、この経験をこう振り返りました。

「不思議な気持ちでした。コートに立っている時はまったく緊張しません。でもベンチから見ているだけでは、試合の行方をコントロールできない。自分にできるのは一生懸命に応援し、感じたことをベンチにいる選手に伝えることくらいで、本当に緊張しながら試合を見ていました」

この言葉に、私は胸を打たれました。

世界大会でダブルダブルを量産するビッグマンが、ベンチ裏で「緊張していた」と言う。それは、彼がどれほど日本代表というチームのことを自分ごととして捉えているかの証拠です。自分が出たいとか、選ばれなかったことへの不満ではない。チームが勝てるかどうかだけを案じて、ただ祈るように見守っていた。

そして韓国戦、ホーキンソンは先発に復帰。試合前のインタビューでは「韓国のファイブアウトの3ポイントを警戒しつつ、ペイントエリアで支配したい」と冷静に分析を語った後、結果で応えました。24得点7リバウンド。桶谷ジャパンの記念すべき初白星を、このビッグマンが力づくでもたらしました。


歌うビッグマン——コートの外にある「もうひとつの才能」

ホーキンソンの魅力がプレーだけにとどまらないことは、もうお分かりでしょう。

韓国戦後の「オリオンビール替え歌」は今回が初めてではありません。Bリーグのインタビューでも歌を披露し、ファンを沸かせてきた「歌うビッグマン」。十八番は中島みゆきの「糸」。J-POPを愛し、Official髭男dismやGReeeeNも好むという、日本文化への溶け込みっぷりは本物です。

父ネルズはバスケ選手としてだけでなく、「Basketball Travelers Inc」というスポーツ観光代理店を経営する実業家でもあります。ホーキンソン自身もMBA持ちの知性派。コート上では肉弾戦を繰り広げながら、コート外ではデータアナリティクスを理解するインテリ。そのギャップがまた、この選手の深みを増しています。

2023年6月には、幼少期からの憧れだったイチロー本人との対面が実現。ユニフォームを交換したそのエピソードは、シアトル育ちの少年がマリナーズを観て抱いた日本への興味が、帰化という形で結実したことの象徴のように思えます。


「日本のバスケをもっと大きくしたい」——タカちゃんが見据える未来

2025-26シーズンのB1で、ホーキンソンはサンロッカーズ渋谷の主力として平均16.3得点・8.0リバウンド・2.3アシストを記録しています。FE名古屋、信州ブレイブウォリアーズ、そしてSR渋谷。3つのクラブを渡り歩いてもなお、どのチームのファンからも愛され続けているのは、彼が地域に積極的に飛び出し、ファンと分け隔てなく交わる人間性があるからでしょう。

2025年8月のFIBAアジアカップでは、シリア戦で26得点13リバウンドのダブルダブルを記録してTCLプレーヤー・オブ・ザ・ゲームに選出。イラン戦では20得点17リバウンドという驚異的な数字も叩き出しています。WC2027予選Window1のチャイニーズ・タイペイ戦では14得点12リバウンド8アシストのオールラウンドな活躍を見せ、30歳を迎えてなお進化を続けています。

彼がインタビューで繰り返し口にしているのは、「日本バスケの成長に貢献したい」という言葉です。タクシーから降りた瞬間に15人のファンが待っていたという、本人も驚くほどの人気者になった今でも、彼の視線は自分自身の栄光ではなく、日本バスケットボールの未来に向いている。

ワールドカップ2027の最終予選に向けて、日本はグループBで3勝1敗の首位をキープ。ホーキンソンがこのチームの中心にいる限り、日本バスケの「次の章」は力強く書き進められていくはずです。


おわりに——なぜ私は、この男に心を掴まれるのか

ジョシュ・ホーキンソンの物語は、バスケの物語であると同時に、「どこに属するか」という問いの物語でもあります。

シアトルで生まれ、NBAの夢を追い、届かず、日本にたどり着いた。最初はアメリカ人のまま暮らし、やがて日本文化に心を開き、ついにはこの国の国民になることを選んだ。

帰化は制度の話ではない。覚悟の話です。

自分を育ててくれた人々への恩返し。自分を受け入れてくれた文化への敬意。そして、日本バスケの未来を自分ごととして背負う覚悟。

208cmの体に、MBAの頭脳を持ち、150km/hの速球を投げた腕で今はリバウンドを奪い、中島みゆきを歌い、温泉を愛し、沖縄のファンと「あっり乾杯!」と叫ぶ。

この男の魅力を、ひとことで表す言葉があるとすれば、それは「本物」です。

日本バスケを好きでよかった。この時代にこの選手を目撃できていることが、どれほど幸せなことか。2027年のワールドカップまで、そしてその先へ——タカちゃんの物語を、一緒に追いかけましょう。


参考情報・主要ソース

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