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和製カリーのその先へ——富永啓生という生き方に、私はどうしようもなく、心を掴まれている。

2026年02月27日 · 読了 13分
和製カリーのその先へ——富永啓生という生き方に、私はどうしようもなく、心を掴まれている。

日本代表 コラム|2026.02.27


はじめに——この男の話を、書かずにはいられなくなりました

正直に言います。

私は富永啓生の3ポイントシュートを見るたびに、胸の奥がざわつきます。

それはバスケットボールの技術に対する感動とも少し違います。もっと根源的な、人間の「意志」みたいなものに触れてしまった感覚に近いのです。3歳の男の子が、誰に教わるでもなく、完璧なシュートフォームでボールをリングに放り込む。その映像を初めて見たとき、私は言葉を失いました。

あのフォームが、20年以上経った今も、ほとんど変わっていません。

変わったのはリングの高さと、背負うものの重さだけです。


第1章 ボールを持った瞬間から、人生が始まった

富永啓生は、バスケットボール一家に生まれました。

父・啓之氏は元選手。家にはいつもボールがあり、ゴールがありました。啓生は物心つく前から、その環境に浸かっていたのです。「バスケを始めた」という明確な瞬間は、おそらく本人にもないでしょう。呼吸するようにボールを触り、歩くようにシュートを打っていました。

そして3歳——。

SNS時代よりもずっと前に撮られた家庭用ビデオに、信じがたい光景が映っています。まだ身長が1メートルにも満たない幼児が、両手でボールを抱え、膝を曲げ、全身のバネを使ってリングにボールを届かせる。そのフォームの「正しさ」が異常なのです。ただ投げているのではありません。ちゃんと「撃っている」。

世の中には、天才と呼ばれる選手がいます。身体能力の化け物、身長の恩恵を受けた者、戦術理解に秀でた頭脳派。富永啓生の天才性は、そのどれとも違います。

この男は、「撃つ」ために生まれてきました。

ミニバス時代にはすでにその片鱗が爆発していました。1試合68得点という、もはやバグのような記録も残っています。対戦相手からすれば悪夢だったでしょう。止められないのです。どこからでも撃ってくる。しかも入る。

そして小学校の卒業式。壇上に立った少年は、全校生徒の前でこう宣言しました。

「バスケットボールの選手になって、NBAで大活躍します」

12歳の夢としては、あまりにも具体的で、あまりにも真っ直ぐでした。


第2章 桜丘の「怪物」、あるいは「楽しむ」ことの凄み

愛知県の桜丘高校に進学した富永啓生は、高校バスケ界を文字通り破壊しました。

語り草になっているのは、2018年のウインターカップです。

全6試合で35得点以上。大会通算239得点。平均39.8得点。得点王、ベスト5。

数字だけでも十分に異常ですが、問題はその「撃ち方」です。準決勝の福岡第一戦——優勝候補筆頭を相手に、前半だけで31得点を叩き込みました。3位決定戦の帝京長岡戦では46得点。ディフェンスが必死に寄せてきても、関係ありません。マークが2枚ついても、関係ありません。トリプルチームでも、彼は撃ちます。そして、入ります。

当時、バスケファンの間では賛否が分かれました。「ワンマンだ」「チームバスケじゃない」という声もあったのです。ですが、あのコートに立って見てほしい。高校生の身体で、あの精度で、あの確率で、プレッシャーの中でシュートを撃ち続けられる人間が、他にいるでしょうか。

そして何より、富永啓生は楽しんでいました。

桜丘のスローガンは「楽しまないと もったいない」。後に彼はこの言葉を自叙伝のタイトルにもしています。これは単なるポジティブシンキングではありません。プレッシャーを楽しめる精神構造を持っている、ということです。追い詰められた場面でこそ笑える。ブザーが迫る中でこそ、最高のシュートが撃てる。

この精神性こそが、富永啓生を「ただの得点マシン」ではなく「本物のシューター」にしています。技術は努力で磨けます。ですが、あの場面で楽しめるかどうかは、才能なのか覚悟なのか、私にはまだわかりません。


第3章 海を渡った男——アメリカという「本気の世界」

高校を卒業した富永啓生は、日本の大学には進みませんでした。

12歳で宣言した「NBAで大活躍する」という夢。それに最も近い道を選んだのです。渡米でした。

最初の2年間を過ごしたのは、テキサス州のレンジャーカレッジ。NJCAAに所属するジュニアカレッジです。華やかなNCAAの舞台ではありません。名門でもない。ですが富永はここで黙々と牙を研ぎました。

平均16得点超。3ポイント成功率は47〜48%。オールアメリカンに選出され、チームをファイナル4に導きました。

アメリカのバスケは、日本とはまるで違います。フィジカルの強度、スピード、ディフェンスの圧力——すべてが格上です。その中で富永は、自分の武器がどこまで通用するかを試していました。そして証明したのです。撃てば入る。それは大陸を越えても変わりませんでした。

2年間の修行を経て、ネブラスカ大学に編入します。NCAAディビジョン1。アメリカ大学バスケの最高峰です。

ここからの3年間が、富永啓生の「人間としての成長」を物語っています。

2022-23シーズンは平均13.1得点。翌2023-24シーズンには平均15.1得点、キャリアハイ31得点を記録しました。NCAAトーナメントにも出場し、3ポイントコンテストでは優勝を果たしています。

ですが、私が本当に心を打たれたのは、得点ではなく学業のほうです。

富永啓生は、アカデミック賞を複数回受賞しています。英語を第二言語とする留学生が、アメリカの大学で文武両道を貫くことの困難さは、想像を絶します。朝から晩まで練習し、授業を受け、レポートを書き、試験を受ける。それをすべて英語でやるのです。

「和製カリー」という異名がメディアで使われるようになったのもこの頃でした。ステフィン・カリー本人から激励を受けたという話も伝わっています。ですが富永本人は、常に「まだ足りない」と言い続けていました。

ネブラスカ州の親善大使にも任命されました。一人の日本人バスケ選手が、アメリカの一つの州の「顔」になる。それがどれほどのことか、少し立ち止まって考えてみてください。


第4章 NBAの壁、そして「選択」

ネブラスカ大学を卒業した富永は、NBAドラフトに挑戦しました。

複数のチームからワークアウトに招かれました。しかし、ドラフト当日、彼の名前は呼ばれませんでした。

ここから、富永啓生の「もう一つの戦い」が始まります。

インディアナ・ペイサーズ傘下のGリーグチーム、マッドアンツに加入。NBAの入口に立ちながら、しかし最後のドアだけが開かない。その苦しみの中でも、富永は結果を出し続けました。3ポイント成功率46.9%。Gリーグオールスターにも選出されています。

サマーリーグではペイサーズから招集を受け、河村勇輝や馬場雄大と同じコートに立ちました。日本人選手がNBAのサマーリーグで3人も揃う——それ自体が歴史的なことでした。

ですが、NBA本契約には至りませんでした。

出場時間は限られていました。実力を証明する機会が、そもそも十分に与えられなかったのです。待つことも選択肢だったかもしれません。もう1年Gリーグで我慢すれば、チャンスが来るかもしれない。

しかし富永は、別の道を選びました。

「もっと出場機会がほしい」

この言葉の重みを、私たちは軽く見てはいけません。NBAという夢の入口に立ちながら、「撃てない環境」よりも「撃てる場所」を選んだ。それは撤退ではありません。シューターとしての、最も誠実な選択でした。


第5章 レバンガ北海道——「撃つ場所」を見つけた男

2025年6月、富永啓生はBリーグ・レバンガ北海道への入団を発表しました。

「自分を必要としてくれる場所で挑戦したい」

この言葉に、私は富永啓生という人間の芯を見た気がしました。NBAを諦めたのではありません。自分が最も輝ける場所で、最も濃密な時間を過ごすことを選んだのです。

そして、その選択は正しかったと言えます。

Bリーグでの富永啓生は、凄まじいの一言です。日本人選手としてリーグ最高水準の得点力を見せつけ、平均18点台をマーク。3ポイントの精度も折り紙付きで、本人は「50%を目指す」と公言しています。高校時代の「楽しまないと もったいない」の精神は、プロの舞台でもまったく変わっていません。

オフェンスでチームに勢いを与える。富永が一本決めた瞬間、会場の空気が変わります。味方のエネルギーが上がります。相手のディフェンスが神経質になります。たった一本の3ポイントが、試合の流れを丸ごと変えてしまう。それが「シューター」という存在の恐ろしさであり、美しさです。

日本代表でも主力として活躍しています。W杯アジア予選の中国戦では、3ポイントだけでなくドライブでも得点を重ねました。「ドライブも自分の強みだ」と語った富永の姿に、アメリカで磨かれた引き出しの多さを感じます。もはや「3ポイントだけの選手」ではありません。ですが、3ポイントが最大の武器であることは、永遠に変わらないでしょう。

「てっぺんを取る」——入団会見で放ったこの一言は、ハッタリではありません。


第6章 「夢の撃ち方」を知っている男

富永啓生のキャリアを時系列で振り返ると、一つの事実に気づきます。

この男は、一度もブレていません。

3歳でシュートフォームを完成させ、12歳でNBAの夢を宣言し、18歳で海を渡り、22歳でNCAA最高峰で結果を出し、24歳でNBAの入口に立ち、25歳でBリーグに参戦して日本代表の中核になりました。

途中、何度も壁にぶつかっているはずです。アメリカの大学で英語に苦しんだはずです。フィジカルの差に打ちのめされた夜もあったでしょう。NBAドラフトで名前が呼ばれなかった瞬間は、12歳の自分との約束が揺らいだかもしれません。Gリーグで出場機会が限られたとき、「ここにいる意味は何だ」と自問したことでしょう。

ですが、富永啓生は撃ち続けました。

どんな状況でも、とにかく撃つ。

撃てない環境なら、撃てる場所を探す。それが彼のやり方です。3歳のころから変わりません。ボールを持ったら、リングを見て、撃つ。その「一貫性」が、私の心を何度でも撃ち抜くのです。


おわりに——あの3歳の動画を、もう一度見てほしい

この記事を書き終えた今、私はもう一度、あの3歳の富永啓生のシュート動画を再生しています。

小さな手で、重たいボールを抱えて、全身の力をリングに向かって解き放つ。

そのフォームは、25歳になった今の彼のシュートと、本質的にまったく同じです。変わったのは身体の大きさと、撃つ場所のスケールだけ。あの日のリングがBリーグのアリーナになり、日本代表のユニフォームの背中に「TOMINAGA」の文字が刻まれています。

富永啓生は「夢の撃ち方」を知っています。

それは、やめないことです。場所を変えてでも、形を変えてでも、とにかく撃ち続けること。3ポイントラインの外から人生を撃ち抜く、その方法を、彼は3歳のときからずっと知っていました。

私はこの男の3ポイントを見るたびに思います。

夢って、こうやって撃つんだ。


文:baskebaka14.net
2026年2月27日